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マルコヴィッチの穴
監督:スパイク・ジョーンズ
2000年9月23日(新宿東急)

 侏儒のフロアの不均衡



 タイトルは失念してしまったのですが、ハリウッドの旧いB級ホラーに、ある高名な人形遣いが人形に執着する余り生きた人間を人形に改造して蒐集するという映画がありました。『マルコヴィッチの穴』を観て想起したのはそんな映画、人形遣いの狂気の矛先が結局人間に向いてしまうというある種の構造矛盾は今も昔も変わらないということなのかも知れません。

 JM社の看板に偽りがあると思うのは、厳密に言えば、誰しもがジョン・マルコヴィッチになどなれるわけでもないからです。彼らが200ドルを支払って15分間だけ体験するそれは、単にマルコヴィッチの視覚を一時的に借りるというだけ、要は有名人の生活をホンの少し覗き見られるということ過ぎません。映像として示されるのもやはりそれ、劇場で配っていた「マルコヴィッチのお面」を顔に当てたのと丁度同じ視覚がそこに再現されているに過ぎません。この物語に於いて真の意味でジョン・マルコヴィッチになり得たのは唯二人、そして、そのうちの一人であるこの物語の主人公に顕れたその有象無象との扱いの差違にこそ、この此処で語られるべき本質が隠されているのです。

 例えば、私がジョン・マルコヴィッチになったとして、さて一体何をするか? 実はこれと言って思い浮かぶものもないというのが正直なところで、精々有名人という立場を利用してある種の欲求の類を満たし、今より幾分か快適な日常を過ごすという程度のものです。JM社を訪れた有象無象にしても同様のはず、要はマルコヴィッチであることを持て余してしまい、物語的な役割という意味に於いては、どれほども貢献し得ないのです。
 そもそも「他人になりたい」という欲求は、ある種の「閉塞感」が指摘されもする現代社会に於ける至って純粋な欲求であるかのようにも誤解されていますが、しかし専ら物語的な場面に登場するそれは、リプリーにしても「マルコヴィッチの穴」に滑り込む人達にしても、結局は「他人であることを利用する」という立場でそれを望むに過ぎません。それは、彼らがその対象をあくまでも(およそ社会的に)「格上」の存在に置いていることにも明らかなのです。その意味に於いて、もし仮に彼の身体を自由に操ることが能ったとしても、しかし、中身を伴わない私を含めた有象無象はマルコヴィッチであることをどれほども活用し得ないわけで、従って(物語的に)ホンの15分間その生活を覗き見るという程度をして妥当と扱われ、映画館のゴミ箱に捨てるわけにも往かないあの「お面」で満足するより他ないのです。
 他方、この物語の主人公が真の意味に於いてマルコヴィッチになり得たのは、彼がそもそも人形を操ることに長けていたからではなく、マルコヴィッチという容れ物に相応しいだけの中身を有していた、つまりそれを持て余すことなく十分に利用し得る資格を予め有していたからに他なりません。そこが有象無象との違い、それまではあの「お面」の視覚か、あるいは極めて客観的なショットでしか捉えられなかったジョン・マルコヴィッチの姿が、漸くと常識的なフレームに収まるようになるのもそんな理由によるものです。つまり、彼はこの「容れ物とその中身に関する物語」によって予め選ばれた存在であり、それ故にこそ「主人公」であり得たとも言えるのです。

 世の中に往々としてある容れ物とその中身のアンバランス、この物語に何らかイロニーがあるとすればそんなところ、そもそも低いなりにバランスが取れている有象無象には邪気の無い短い夢を、アンバランスの不条理に思い悩む向きには「禁断の木の実」を、同様の構造は、この作品に於いて何よりも先ず観客がその視覚によって認識する滑稽なアンバランス、本来侏儒のために建設されたフロアで窮屈に腰を屈めざるを得ない不条理にも示唆されています。

 さて、この映画が評価されるのは専らその「新しさ」にあるようなのですが、個人的には少しもその「新しさ」を見出し得ませんでした。初期のウディ・アレンとデビッド・クローネンバーグを足して哲学的な言語活動を幾分幼稚にしたような感じとでも言うか、映像的な意味での驚きもありませんでしたし、確かに面白いとは思いましたが、それだけの映画と言えなくもありません。あるとすれば、対象を「ジョン・マルコヴィッチ」という実在の人物に特定したことくらい、しかし、それとてありがちな「セルフ・パロディー」の応用に過ぎないような気がします。南の国に暮らす人にとって雪が珍しいのと同じ、と言っては言い過ぎなのかも知れませんが、しかし、この作品を殊更に「新しい」とか「ハイセンス」と感じてしまう人達というのは、これまでに余り恵まれた映画体験をしてこなかった人達のような気もします。この監督の才能を指摘する驚くほど多くのテクストをよく読むと、この人物がそもそも映画監督以外の分野でも活躍していること、その多才ぶりを指摘するものが殆どで、この作品の監督であることに特定してその才能を論じた評というのはどれほどもないようにも思われます。あるいは私の目が節穴なのでしょうか?

 公開初日、祭日の午後にして8割程度の入場者、興行的にはおそらく成功の部類なのでしょう。我々は予め指定席券を購入、超満員が予想される状況でもないと決まって「わざわざ指定席を買われなくても一般席でも十分観られますヨ」とチケットカウンターの女性が指摘を、親切のつもりなのでしょうが、マッタク以て余計なお世話、ガラガラだった場合に払い戻しを要求するゴロツキが多いということなのでしょうか。そう言えば、何故か十代後半から二十代前半と思しきカップルが観客の大半を、この作品がある種の「ブランド」を纏っている何よりもの証左と言えるのかも知れません。「マルコビの面白さがわかんねーヤツはイケてねーナ」とか、巷の「テレビ小僧」どもが何処かで吼えているのかも知れません。
 既述の通り、映画館の入口で「マルコヴィッチのお面」が配られていました。何の意味があるのかはよく分かりませんが、殆どの人が迷惑そうにそれを持て余していたことだけは確かでした。


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