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ポルノグラフィックな関係
監督:フレデリック・フォンテーヌ
2000年9月24日(ル・シネマ2)

 そこに在る第三者の眼差



 フランス人の男女が2時間のあいだ人生だの哲学だのを語って痴話喧嘩をつづけるような映画や、(中略)は永遠にレビュウされることがない。

 私が敬愛して止まない映画評サイトの前口上にこんな一文があります。この『ポルノグラフィックな関係』も、あるいはそんな映画の一つなのかも知れません。その類の映画に於ける至って抽象的な言語活動は確かに退屈極まりないもの、そもそも「映画」の如きが吐き出す言語にどれほどの発見をも能わないというのが現実であり、それが専ら台詞を借りた直截な言語活動ならば尚更のこと、指摘されているような物語的な単調さを余儀なくされる類の映画など得てしてそうなりがちです。しかし、そんな映画が総じて退屈なわけでもないのは、それを直截な言語活動以外の方法によって解決することもまた可能である故、我々はそこに在る「第三者」の存在を思い出さなくてはなりません。

 互いの素性をどれほども知らない一組の男女が、木曜日午後のカフェで落ち合ってホテルへ、数時間後には次回の約束を交わしてまた分かれる、この映画はそんな場面の繰り返しに過ぎません。しかし、此処に於いては正しく第三者的な存在である「カメラ」が、その立場を微妙に変化させることによって、物語的には至って単調なその反復動作を、俗に言う「フランス映画的な退屈さ」から遠ざけることに成功しています。
 例えばカフェの場面、彼らの初対面に際しては、カメラは彼らにより近く、彼らの細かな仕草、何よりも「手の表情」を巧みに捉えるという常套を以て、そこにある緊張感を観客に伝えています。しかし、彼らの逢瀬が繰り返される度に、そこ物語的な必然性が何らか生じない限り、カメラはより客観的な立場をとるようになります。ある時は舗道からカフェのウインドウ越しの彼らを、もはやクロースアップやモンタージュもありません。彼らの親密さが増すに従って、まるでカメラが「遠慮」するかのようにその身を遠ざけて往く、逆に言えば、彼らの親密な関係に於いては、もはや第三者、即ちカメラによる「お節介」も不要になったと、そんなふうにさえ感じられます。
 カメラがその主体性を発揮する場面がもう一つ。カフェで落ち合った彼らが逢瀬を愉しむホテルに於いて、殆どの場合、カメラは一面が赤く染められたホテルの通路で立ち止まり、それ以上彼らの行為に立ち会おうとはしません。しかし、物語的な必然としてそれに立ち会わざるを得なくなる場面(一度だけあります)は別として、唯一度だけカメラは自らの意志によって、通路とは対照的に一面が青く染められた室内に入り込み、彼らの行為に立ち会います。此処に於いては、些か通俗な表現を借りれば、その行為に「愛」があるか無いか、少なくとも彼らがそう思うか思わないかでそれらを分けることができます。この場合は、カメラの主体性というよりむしろ彼らの側がカメラを立ち会わせたとも、些か露悪趣味的とは言え、しかし、それまで繰り返されてきた至って動物的なそれより、彼らにしてみればそれは余程「自信」のある動作のはず、単に倫理的な意味での正当性を主張できるというだけではなく、行為それ自体がそれまでとは比べものにならないくらい活き活きと、要は観客に「見せるに足る」ものであると判断されたわけです。それでもカメラは幾分遠慮がちに、ベッドの端から(騎乗位の)女の背中を捉えてみたり、あるいは天井から俯瞰してみたり、彼らに招かれては来たものの、しかし何となく居心地が悪そうにさえ見えます。一見して彼らの行為を美しく捉えているようで、しかしあくまでも客観的でしかないその視線は、カメラが彼らの倫理を、彼らの自信とは裏腹に、いまだ容認していない、あるいは最後まで決して否定も肯定もしない中立的な立場を貫く強い意志のようにも感じられます。
 あらゆる映画に於いて、決してスクリーンに映し出されることはなくても、しかし、間違いなくそこ存在しているカメラとその視線、それが時としてスクリーンに現る存在と等価かそれ以上のものとしてそこに在り得、そして、それが必ずしも「神の視座」などではなく、もっと人間らしい眼差を以てその存在を我々に知らしめ得る、そんなことを改めて実感する映画です。

 この映画は男女それぞれに対する「疑似インタビュー」から物語が遡行されるという体裁をとっているのですが、しかし、実際には「遡行される」というよりも「解説されている」といった感じ、物語の結末に関するそれなどその最たるもので、多少煩わしくも感じられました。尤も、この「疑似インタビュー」に関しては、二人の「解説」に微妙な齟齬があったり、また、何よりも、その面相が遡行されたそれとは違っている(男の方は髭を蓄え、女の方は髪がブロンドからブルネットに。「変わっている」のではなく、あくまでも「違っている」のです)のが、そこで語られている物語自体が単なる妄想に過ぎないという可能性をも示唆しているかのようで、実に面白いと思いました。

 恵比寿で『17歳のカルテ』を観るつもりで出掛けたのですが、私が劇場に着いた時点で次の次の上映回までも既に満席だったため、致し方なく渋谷に戻って観たのがこの映画でした。『17歳のカルテ』とは打って変わって劇場はガラガラ、主演のナタリー・バイは、日本ではどのくらいの知名度がある女優なのでしょう? 個人的にはフランソワ・トリュフォー監督の『アメリカの夜』で「スクリプト係」を演じていたのが一番(『緑色の部屋』より)印象に残っています。その当時(フロフィールを参照すると24歳)の何となくノッペリとした面相が、歳を重るに従ってそこに加えられていく「線」によって、実に端正なものに変わっていたのが何よりもの驚きでした。


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