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カノン
監督:ギャスパー・ノエ
2000年9月30日(シネマライズ2)

 挑発する不機嫌な肉塊



 ある道徳的な行為を目撃したとき、我々はそれを決してその一個人の意志に帰するものとは考えません。我々はその背後にある、その行為を促す「社会」をもまた同時に了解するのです。他方、それが反=道徳的な行為の場合は、しかし、そこに必ずしも「社会」の存在を認めるとは限らず、むしろ、その一個人の意志にこそ帰する行為と、そう了解したがるようにも見受けられます。従って、何らかの表現媒体を介して、そこに示した反=道徳的な行為を「社会」との深い関係に於いて認識させるには、些かの努力が、その行為の主体を予め「社会的存在」として認識させておく必要があります。今さらブレヒトを持ち出すまでもなく、そのために肝要なのは、その主体をあくまでも我々に感情移入の余地を与えない「匿名の個人」に止めておくこと、そうすることによって初めて、彼の行為は彼が帰属する「社会」との深い関係を獲得し得るのです。
 この『カノン』という映画それ自体が、もし何らか「反=道徳的」なものとしてあり得ているのならば、それはやはり、そこにある同様の装置が十全にその機能を果たしている故、そこに於ける行為の主体は決して「パリの馬肉屋」という些か憐れな特定の個人などではなく、ある社会階層の表徴した一個の「肉塊」、その呪詛の言葉は、他でもない「社会」から吐き出されているのです。

 呪詛に満ちたモノローグを吐き出す彼が、しかし、単に一個の「肉塊」に過ぎないのには幾つかの理由があります。我々が先ず印象付けられるのは彼のその中年太りした如何にも醜い肉体、迷惑なことに、物語序盤に於いて我々はそんなものをおよそ意図的に目撃させられ、そのイメイジを最後まで引き摺ることになります。それは正に「肉塊」、そこに在り得るあらゆる精神性をも無効にし得る醜悪さです。とは言え、そこからは紛れもない言語活動が、この映画の殆ど埋め尽くすその呪詛に満ちたモノローグが彼の意志の発露であることは明白、単なる「肉塊」と断じてしまうのは早計と思われてしまうのかも知れません。その「モノローグ」に関しては後述するとして、しかし此処に於いてスクリーンを往来する彼の思考と行動を決定するのは、そのモノローグに何らか関わりのある彼の「意志」などでは決してありません。確かに、その忌々しい言語活動に気取られていると、あるいはそんなふうにも見えてきてしまうのですが、しかし、此処に於いて彼の意志を決定しているのはあくまでもその社会状況と彼の所有に帰するおよそ二つの「モノ」あるいはその「量」に過ぎません。それはつまり「ポケットの残金」と「銃弾の数」、それらがこの物語に於ける彼の行動と思考の殆どを決定しているのです。例えば彼が「アラブ人」の酒場に乗り込んで行くのは、彼がそこに於いて何らかの恥辱を受けたからでは決してありません。勿論、それも理由の一つとすることもできるのかも知れませんが、しかし、それよりもむしろ決定的なのは、彼がその酒場に於いて「ポケットの残金」のすべてを使い果たしてしまったこと、彼に残されたのはもはや彼の思考と行動を決定するもう一つ、「三つの銃弾」しかなかったのです。それ以降の彼の思考と行動が専らその「三つの銃弾」の使途に左右されることになるのは物語に明らかです。
 総じて、彼は積極的な意志など幾らも有してはおらず、専らその社会的状況と所有物によって「動かされている」一個の存在、つまりは単なる「肉塊」に過ぎないと言えるのです。

 一般に、映画に於ける手法としての「モノローグ」は、手取り早い「状況説明」の手段として用いられることが多いように思われます。大抵の場合、それは物語の冒頭に配置され、「物語以前」や登場人物に関する状況を簡潔明瞭に説明します。尤も、それが些か安易でもあるのは、それが直截な言語活動に過ぎない故、小説の類に於いてすら安易な手法が何らか映画的であり得るはずがありません。「モノローグ」はまた、それを吐き出す主体の「孤独」を意味する場合もあります。例えば、パーティーの場面など、人間の多く集まった場所でそれ以外の音声の一切を遮断して、そこにカメラの視点を借りた「モノローグ」を配置すれば、それはその主体の孤独、あるいは疎外感を説明することにもなるわけです。
 此処に示されるモノローグはしかし、およそ映画的な機能とは程遠いもの、何らの状況を説明するものでもなければ(仮に説明しているにしても、それはモノローグを必要とするまでもなく既に説明がなされています)、カメラが既に十分捉えている彼の孤独と疎外感を補足するものでもありません。何らか説明があり得ているとすれば、それは彼の同時間的な思考であり、つまりは「モノローグ」本来のそれでしかないのです。それが彼の行動にどれほどの関わりをも有していないのは既述の通り、従って、映画的には殆ど無意味なものとも言えるのです。
 この映画の大部分を埋め尽くすその「無意味」は、あるいは「音楽」にも類したものとも言えるのかも知れません。それは例えば、黒沢清監督の『CURE』にある不快な「通奏低音」のようなもの、言葉がその「意味」を失えば、それが単なる「音」に過ぎないのは言うまでもないことです。それは彼がその言語活動を伴って黙々と歩く場面に登場するもう一つの言語活動、寂れた街の壁に幾つも記された(ゴダール的な)「文字」が、(それを了解し得ない)我々にとって単なる「記号」でしかあり得ないのにもまた似ているのかも知れません。そして、それがむしろ「音」に過ぎないからこそ、その「持続」と「断絶」が至って映画的な効果をもまたもたらしているのであり、この物語の終わり近く、その「音」をパッヘルベルの「カノン」に一時的に譲り渡す場面が取り分け美しいのも、そんな効果が見事に発揮されているからと言えます。
 勿論、そのモノローグを文字通りの言語活動として了解することに何の意味もないとは言いません。些か饒舌が過ぎるとは言え、その中にこそ彼の置かれた社会状況、何よりも我々にとって十分「情報」として機能し得るものが多く含まれているのは紛れもない事実なのですが、それはしかし、必ずしも「映画」が果たすべき類の言語活動でもないと、私に言わせれば、そんなものは新聞やテレビの仕事、映画は「プロパガンダの手段」ではないということです。

 この映画に於けるさらにもう一つの言語活動、誰しもがゴダールを想起するであろうそれについても言及すれば、ゴダールのそれが時として「自問」を装う狡猾さをも有しているのに対して、此処に於けるそれは些か「正直」が過ぎるようにも、個人的には、何となく子供染みているようにも感じられてしまいました。勿論、それはこの映画が示す「誠実さ」の顕れともまた言えるのでしょう。

 ある「社会」に蠢く不機嫌な「肉塊」と不機嫌な「音」、我々がこの映画を以て目撃し得るのは正しくそれだけです。それがある種の「挑発行為」として見事な成功をもまた収めているのは、しかし、今さら言うまでもないことです。

 公開初日の土曜日の午後、場所が渋谷の「シネマライズ」ということもあって、それなりの覚悟で足を運んだ割には、どれほどの混雑にもなっておらず、最終的にも劇場全体の漸く半分が埋まっていた程度、何となく肩透かしを喰らった恰好でした。開場前に長い行列が出来て一見して混雑しているようにも感じられてしまうのは、単にその映画館が「整理券制」を導入していない故、そうしない理由はよく分かりませんが、やはりロビーが些か狭いからでしょうか。
 その狭いロビーをウロウロとしていたスキンヘッドの白人男性、その周囲に取り巻きができていたのは、彼がこの映画の監督だったからに他なりません。遠巻きに羨望の眼差しを向ける制服姿の女子高生にも、彼は確りと「挑発行為」をしていました。

 余談ですが、この映画を観て以来、例えば、エスカレーターの右側を空けない阿房になど出会す度に「このアラブ野郎め!」とか心中呟くようになってしまいました。


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