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17歳のカルテ
監督:ジェームズ・マンゴールド
2000年10月1日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 退屈なアンガージュマン



 私にとって非常に近しい関係にある人間の一人が所謂「鬱病」というのを患っていたことがありました。私がその人間と直接会って話をしたのは、その病気がもう随分と回復してからのこと、従って、生死の問題まで取り沙汰されていたときの様子など、実はよく知らないのですが、それでも、その人間が至って健常だったときのことしか知らない私にしてみれば、その様子はかなり異常なものに映りました。何よりも驚いたのはその面相、時折見せる深く打ち沈んだそれはまるで別人のもの、取り分けその眼が死んでいました。回復が進んでいることもあってか、終始そんな表情を見せていたわけでもなく、そうでないときは至って普通の、私のよく知るそれだったのものですから、そうでないときとの極端な落差が、その状態を実際以上に悪くみせていました。
 私のその経験が何処まで一般化できるのかは分かりませんが、『17歳のカルテ』を観て先ず思ったのは、そこにいる人間の眼が輝き過ぎていること、勿論、それなりの演技はしているのですが、眼の輝きこそがその証でもある若手人気女優がそれを演じるにはやはり限界があると、そんなふうにも思いました。尤も、この映画は精神病患者のリアリスムを追求することを第一義としているわけでもありませんから、そのことが作品の価値をどれほども下げるともまた思わないのですが、そこに生じてしまう矛盾はしかし、私を何となく居心地悪くさせるものでした。

 カメラがティルトアップして格子窓を捉える、この映画は先ずそんな場面から始まります。本来、物語の後半部分に現れる一場面をわざわざフラッシュバックさせてまで、観客に先ずそれを示すという動作は、否が応にもある種の「政治的意志」を予感させるのですが、しかし、この作品全体をして、実際にはどれほども政治的なものではありませんでした。例えば、ミロス・フォアマン監督の『カッコーの巣の上で』に於いては、開け放たれた窓を前に誰もそこを通り抜けようとはしない、あるいはその窓を開けた当人ですら、俄には信じ難い迂闊さで逃げ損ねてしまうという、そんな不可解な場面に誰しもが「システムの見えざる壁」の存在を認める、つまり、そう認めざるを得ないようにその映画は作られているのですが、此処に於ける同様の不可解さは、しかし「システムの壁」など少しも予感させるものではなく、単に健常な人間から見た精神病患者の不可解さ、つまり、字義通りのことしか示してはいないのです。確かに、この映画にも抑圧の装置としてのシステムは存在しているのですが、しかし、それもやはり字義通りの、単なる「精神病院のシステム」というそれだけ、それ以上のものは何処にも示されてはいません。つまり、此処に示された「格子窓」は宙に浮いたまま、何処にもその着地点を見出せないのです。

 この映画はまた執拗にその「時代」を強調します。「60年代という時代が云々」という主人公のモノローグに始まって「70年代になって云々」というやはり主人公によるモノローグに終わるこの映画は、ジョン・F・ケネディーのポスター、タクシー運転手の発言を借りたジョン・レノンという固有名詞、ハレ・クリシュナ、ベトナム戦争、キング牧師等々、そして何よりもそこに引用されているすべての音楽が、ある時代とその雰囲気を観客に押し付けてきます。この物語は実話を基に制作されていますから、それを忠実に再現する手段の一つとして、取り分けその時代が強調されることもあって然るべきなのですが、しかし、それは観客がそこに目撃するあらゆる「不快さ」の責任の一切を「時代」に押し付けようとする如何にも次元の低い意志のようにもまた感じられ、作品の程度を堕としこそすれ、決して何かを豊かにしたりはしない無意味な饒舌なのです。

 本来此処に在るべきは「システム」や「時代」といった如何にも大仰なそれらでは決してなく、もっと身近な、例えば「近しい他者との間にも感じてしまう壁」といった類、その誰しもの身近にあり得る小さな隔たりが、延いては「システム」や「時代」に行き着くことは確かに自明ではあっても、此処に在るのはそんなこととはまるで無縁の、世の中のそんな道理になど気が付きもしないような人達であり、否、映画や書物を離れれば、大抵の人間の日常など所詮はそんなものに過ぎないはずです。実際この映画は、冒頭の「格子窓」や退屈な時代描写を除けば、そこに「個」との対立が約束されている何らかを予感させるものなど何一つなく、むしろそれ故にこそ、特定の一個人にのみ帰する、他者あるいは(身近な)社会との「断絶」をそれなりに捉え得てもいるのです。しかし、それだけに尚さら、如何にも中途半端で、もはや目障りとしか言い様のないその至って退屈な「アンガージュマン」を疎ましくも感じてしまうのです。商業映画に何らかの政治的意志を巧妙に隠すのが「作家」の在り方の一つとは言え、しかし、それが作品自体を台無しにしてしまうのではまるで本末転倒、そもそも「映画」が何らか政治的である必要すら疑わしいというのに。

 この映画が公開されてどのくらいになるのかはよく憶えていないのですが、週末はとにかく混んでいます。私自身も二度目の挑戦にして漸くとそれを観ることができました。そもそもの公開規模が小さいということと、当節人気の若手女優が二人出演しているという以外、私にはその混雑の理由がよく分からないのですが、あるいは、この映画にあるようなテーマに惹かれるのこそが、今どきの時代の雰囲気ということなのかも知れません。

 尚、冒頭に書いた私に近しい人間は、私の目に映る限り、今現在はすっかり正常な精神状態を取り戻しています。


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