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クレイドル・ウィル・ロック
監督:ティム・ロビンス
2000年10月7日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 曲線、あるいは共時態



 先日『カノン』を論ずる場を借りて書いたことと話は同じです。この映画、『クレイドル・ウィル・ロック』にはしかし、他でもないブレヒト自身が如何にも演劇的な手法で登場するものですから、我が身の浅学菲才を自覚しつつも、今一度そのような話を。
 例えば、「失業者の自殺」を政治あるいは社会の責に帰すべき問題として観客に訴えたい場合、それはあくまでも機械的、類型的に描かれなくてはなりません。本来其処に在るはずの個々人の責に帰する一切を意図的に隠し、彼の自殺の理由をただ一つ「失業者であること」に摩り替える、そうすることによって、もはや自殺することがその運命でもあるかのような「失業者一般」を生産する装置、即ち政治あるいは社会の責を其処に明らかにすることができるのです。勿論、其処には映画や演劇に期待される「人間ドラマ」は必然として排除され、劇場の外へ一歩踏み出した途端にも忘れてしまうような類の「感動」を得ることはできません。また、舞台(スクリーン)上に在る人物あるいは物語に対して直接的な共感も同化もあり得ない、即ち「異化」されるのです。

 此処に劇中劇として引用される『ゆりかごは揺れる』という舞台劇は、おそらくは既述の方法論を用いた「叙事的演劇」と呼ばれるものだと想像するのですが、しかし、その制作の過程を描くと同時に、それと同様の政治的意思表示を意図したはずこの映画は、むしろそれとはまるで正反対の方法によって構築されています。従って、もしこの映画が、其処に塗り込められた「政治性」をこそ第一義とするものならば、残念ながらそこの目的はどれほども達し得てはいません。これはあくまでも其処に描かれた歴史的に著名な個々人に纏わるメロドラマであり、また、如何に彼らを「群像」として描こうとも、しかし、それら総体が一つの意思として何らか機能したりはしません。「特定の個人」をどれほど束ねてみたところで、しかし、決して彼らが「匿名」に堕ちたりはしないのです。何よりも皮肉なのは、本来演劇史的にも無名、打って付けの「匿名性」を有しているはずの(『ゆりかごは揺れる』の)主演女優が、他でもないこの映画で扱われることによって著名人の仲間入りを果たしてしまうこと、すべてがそれと同様の矛盾を起点として其処に在ることを了解すれば、この映画がどう工夫を凝らしてみたところで、しかし、予め約束されたこととして「叙事的」でなどあり得ないこともまた簡単に了解できるのです。此処に於いて毛利元就の理屈は通用しません、むしろ、そんな筋違いな「蛮勇」の所為で、もはや物語は飽和寸前の状態、観客は「異化」されるどころか、その思考に甚だしい混乱を来してしまいます。従って、この映画のクライマックス・シーンに於ける「ベニス劇場」と「ロックフェラー・センターの壁」の巧みな「カット・バック」にしても、その視覚としての刺激とは裏腹に、(そう意図されているはずの)政治的意思表示の装置としては、しかし殆ど機能不全のガラクタにも等しいものなのです。

 もし仮に、私のその指摘が正しいにしても、しかし、そんな観点でのみこの映画を評しては、単にその言説の貧しさを指摘されるだけ、此処にはその「機能不全」を補って余りある映画的躍動があります。それぞれの個人に帰する幾つかの物語は、例えば、オリーヴが裏返しになったスクリーンの前でゆっくりと立ち上がる場面やパペットが「インターナショナル」を歌う場面等々、単なる人間ドラマとして了解すれば、それらそれぞれは間違いなく優れています。そして何よりも、映画が始まって数分後に登場するドリー移動とクレーンによるロング・ショットが舞台を淀みなく「回す」そのシークエンスにも顕著である、この映画に於いて描かれる滑らかな円あるいは曲線は、其処に点在する幾つかの像を見事に連動させることに成功しています。あるいは、スクリーンを終始支配するその円あるいは曲線のイメージは、其処に繋ぎ合わされたそれらの同時間性、言わば「共時」を表徴するものともなっており、それはこの映画の印象的な、紛れもなく「通時」を示唆するラストシーンが、他でもない「直線」のイメージを以て其処に在ることにも明らか、つまり、此処に於いては、カメラがその運動によってその時間と空間を見事に操作し得ているのです。その「直線」と巧みに交差する「曲線」即ち「ベニス劇場の歓喜」は、この映画を目撃し得た我々の歓喜でもまたあるのです。

 ティム・ロビンス監督に対するインタビュー記事を参照したところ、フランスのプレスは、この映画が「オーソン・ウエルズの物語」でなかったことが大いに不満だったようです。フランスのシネフィル風情は何とも傲慢であると言うか、私に言わせれば、少し勘違いしているようにも思われますね。そう言えば、『ジャングル・フィバー』が公開された当時、スパイク・リー監督に対するインタビューの中で、カイエ誌の評論家が「スティービー・ワンダーなんて、あんな商業主義にどっぷりと浸かった人間の音楽をどうして使うんですか?」なんて質問をしていましたか。

 公開初日の午後、先週までは『17歳のカルテ』が上映されていた劇場は、そのときの混雑ぶりと比較するとさすがに見劣ってしまいますが、それなりに、公開初日らしい程度には混雑していました。(週末は)いつまで経っても混雑が収まりそうもない『17歳のカルテ』の方は、少し狭い隣の劇場に場所を移してのロングラン、劇場が狭くなった所為もあってか、それまでも以上にも混雑しているようでした。何週間か後にはそれそれの劇場が入れ替わっているのかも知れません。


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