Index

 
クリミナル・ラヴァーズ
監督:フランソワ・オゾン
2000年10月8日(ユーロスペース2)

 彼と彼の罪悪



 70年代的、あるいはニューシネマ的な如何にも大仰なその結論は、其処に在るものを決して一個の肉体とは見做さず、それ以上の「何か」と見做していた故の必然に他なりません。つまり、あの明らかに致死量を超えた数の銃弾を彼あるいは彼女に撃ち込まざるを得なかったのは、彼らが単に「史上稀に見る犯罪者」であるに止まらず、時代の雰囲気が要求しるある種の「幻想」をも表徴した存在であった故、腕の良い狙撃手なら一発で済ませてしまう動作を、しかし、至って経済効率の悪い大仰さを以て示すのは、映画的視覚の要求ばかりでは決してなく、逆説的にその「幻想」の巨大さをも示唆していたのです。
 この映画に於いても、やはりそんな不経済が、現実に引き戻されるもう一個の紛れもない「肉体」とは対照的に、「幻想」は如何にも幻想らしい結論として、物語の終わりと時を同じくして森の中に消えて往くのです。此処に於ける「幻想」もやはり(ニューシネマのそれに比べれば)我々にとって余程切実な「現代」を表徴しています。

 福永武彦の小説がいまだに「実験的」とも呼ばれてしまうのとは対照的に、映画に於ける「フラッシュ・バック」という手法はどれほども珍しいものでもなく、如何に唐突にそれが現れようとも、大抵の観客はそれを即座に「過去」として了解します。しかし、此処に於けるそれは、些か親切が過ぎる手続きを経てその「過去」が再現され、そのベタベタな手続きはむしろ非現実的ですらあります。そのベタベタな手続きとはつまり「日記」の記述に従った再現であるということ、勿論、それはあくまでも便宜的なものに過ぎないのですが、しかし、そんな便宜ですら「映画」に於いてはどれほども必要とされてはいないわけですから、些か野暮ったくも感じてしまうのです。従って、それを承知の上で、そんな手続きが敢えて持ち込まれたとするならば、其処にはやはり然るべき理由が、それは他でもない、その日記を読む「森の男」が其処に記された彼らの「過去」を予め共有する必要が(物語的に)存在していたからです。
 彼がそれを共有しているかいないかでは彼の立場が大きく異なります。それを共有していない立場で彼が持ち込み得るのは単なる不条理、グリム童話の魔女と同等のものでしかあり得ません。しかし、その過去を共有することによって、彼は、単に寓話的である以上の、然るべき「教育者」の立場を獲得するに至るのです。少年の犯した誤り、あるいは彼のセクシャリティーを予感させる事実を予め了解していればこそ、それらを解決に導く優れた教育者であり得たのです。セクシャリティーの問題は後述するとして、そもそもの殺人もそうですが、あるいは、カネがあるにも関わらず(そのカネもやはり盗んだものですが)万引きをしたり、あるいは、森からの脱出を第一に考えれば、「森の男」に先ず助けを求めこそすれ空き巣に入るという愚を犯したりはしないわけで、その如何にも未熟で矛盾に満ちた動作が、しかし、その教育の成果によって「殺さなくても逃げられるのなら即ち殺す必要がない」という成長にも繋がるのです。
 それでもまだ「森の男」が日記を読まざるを得ない物語的必然を正しく指摘するには足りません。日記など読むまでもなく彼が少年達の過去あるいはセクシャリティーを既に了解していても何ら不思議ではないのは、それが「映画=虚構」である故、それがその非現実を予め示唆する「メルヘン」なら尚更のことです。それでもやはり「森の男」が「日記を読む」という如何にも愚直な手続きを要さざるを得ないのは、つまり、彼がメルヘン的な、予め神の視座を獲得した物語的存在であってはならないと指示されている故、あくまでも少年と対等な、一個の肉体を有した現実的な存在でなくてはならなかったのです。一見して「少年=少女≠森の男」にも思われる三者の関係は、しかし、正しくは「少年=森の男≠少女」であると、少女こそが「映画的幻想」に過ぎないのは、既に指摘した通りです。ウサギに導かれるどころか、ウサギを轢き殺してしまうという森へ至る過程を指摘するまでもなく、彼女に与えられた象徴的な名前はその意味を裏返しに、物語はむしろ「不思議の国」から「森の中の現実」へ、従って、森の中に於ける彼女の「無力さ」もまた道理なのです。そして、物語の後半、舞台が再び「不思議の国」に舞い戻ったわけでもないことは、少女の頸にあったはずのものが、少年の頸に移動していることにも示唆されています。つまり、少女はもはやその所在を失ってしまったのです。

 さて、此処に於いて明らかになるのは、この映画の表題が決して無軌道な高校生カップルを指しているのではないということ、まあ、監督のセクシャリティーを予め了解していれば、実は容易に知れることでもあるのですが。この映画に於いて「森の中」こそが「現実」である所以とも言えますね。

 公開開始から既に何週間か経っている所為もあってか、狭いユーロスペースの半分が漸く埋まっている程度でした。ユーロスペースでの常として私は一番前の席に、その位置からだと上下の幅はそれほど気にならないのですが、横幅はシネスコサイズだと多少見辛くも、尤も、この映画の場合は所謂「ヴィスタサイズ」でしたから然程気にはなりませんでしたが。余談ですが、狭い劇場、小さなスクリーンに映写されるべき理想は、やはりアカデミーサイズではないかと思っています。
 見辛いと言えば、英語圏版のプリントが使い回されているせいで、画面にベタベタと英語の字幕が残っていたのが実に目障りでした。あるいは、国際都市トキオならではの「配慮」だったのかも知れませんが。


Index