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インビジブル
監督:ポール・バーホーベン
2000年10月14日(新宿文化シネマ2)

 変質者の恐怖



 映画に於いて「透明人間」の比喩を以て表される存在とは、言うまでもなく「カメラ」のことです。あらゆる映画は言わばその「第0人称」の視線を借りて、その「彼」に場面を覗き見られることによって成立しています。例外があるとすれば、純粋なドキュメンタリー映画やシネマ・ヴァリテの類、其処に於けるカメラは「第一人称」を獲得した、つまり、観客あるいは被写体によって予めその存在を許容された立場でスクリーン上に現れます。また、手持ちカメラとクロースアップの多用が、あるいは「現実主義的」とも認識されるのは、カメラが如何にも映画的な非現実を抛棄、即ち彼が「透明人間」であることを止めているからに他なりません。従って、常態として「透明人間」を許容する一般的な映画に於いては、実際、既に其処に在るのですから、それを映画的に表現するのなど実に簡単、観客にだけそれが「第一人称」であることを予め知らせておけば、それが即ち(単なる比喩ではない)透明人間の視線になり得るのです。

 この映画に於いては、しかし、そんな「映画的」な表現手法はどれほども活用されておらず、数える程しか現れないそれらにしても、他に有効な方法もあり得ないような場面に於いて、至って消極的に活用されているに過ぎません。それとて透明人間を「見せる」ための極めて有効な手段の一つはずなのですが、しかし、此処に於いては、そんな情緒的な相対認識では足りないとされているのか、文字通り「見せる」ことにのみ重きが置かれています。既に同様の映画で使い古された類の表現手法(ひとりでに物が動くとか、口から入れた食物が宙に浮いているとか)を徹底的に回避したかったらしいバーホーベン監督が実現したそれは、確かに視覚効果としては実に斬新であり、透明人間を「見せる」ことがこの映画に於ける第一義であるならば、その発想、努力は賞賛に値するものに違いないのですが、しかし、其処に強調された「視覚的に優れた透明人間」という恐るべき形容矛盾は、同時にまた、本来「透明人間モノ」に於いて第一義であるはずの「不可視存在への恐怖」という重要な要因を殆ど無効にしてもいるのです。「如何に見せるか」が此処に於ける第一義であり、実際、「見えている」のですから、それも道理なのです。
 例えば、透明人間が眠っている人間にイタズラをするという、そんな場面が如何にも無意味なのは、そもそも眠っている人間にとっては相手が可視か不可視かなどまるで関係がない故、其処に於いて意味を持つのは「ひとりでに歪む乳房」という、監督が指摘する如何にも凡庸な相対変化が変質者的な趣味を獲得して確かに「斬新」にもなった映像それ自体に過ぎません。この映画がその捏造に腐心するのなど総じてそんな程度のもの、「不可視存在への恐怖」などそもそも期待する方が間違っているのです。此処にあるのは、何れも「可視」を大前提とした「変質者」あるいは「リビング・デッド」の恐怖、そんなものに過ぎません。

 そもそも、あらゆるサスペンス映画とは「不可視存在への恐怖」をスクリーンに再現するものに他ならず、従って、透明人間だけが(スクリーン上に於いて)不可視存在であることを特権的に約束されているわけでもなくて、例えば「人の心」などもまた永遠にに不可視を約束された主題であり、対人関係の不安や恐怖はその不可視性にこそ、サスペンスに限らないあらゆる「物語」は其処に生まれるのです。スクリーンに「人間」を捉える殆どすべての「映画」とは、つまり、予めその不可視存在との格闘を余儀なくされているのであり、その不可視を不可視のままに、決して無意味に視覚化するという愚に陥ることなく(人間の心を視覚化することなど実に簡単です)如何に再現するかということこそが映像表現としての質を分けると言っても過言ではありません。また、透明人間という「非日常」は、我々が平凡な「日常」に於いて感じている不安や恐怖が、空想の場面を借りて表出した存在なのであり、彼の存在がそれと対峙する人間、あるいは観客を不安や恐怖に陥れるのも、彼がその当たり前な人間心理の虚を衝いてスクリーンに出現するからに他なりません。此処に於ける「可視化の試み」が如何にも「貧しい」のは、結果として其処に現れたものが、単なる「可視存在」以上にも軽薄な、「人の心」を可視化、再現するにも等しい「愚かさ」を決して免れ得てはいないからです。勿論、この映画に登場する「透明人間」は、既述の通り「変質者」もしくは「リビング・デッド」としてはそれなりの存在であるとも、それが「恐怖、不安の対象」であるかどうかは別問題としても。

 人間の、所謂「性悪説」的なものこそがこの映画の主題であるとも評されているようですが、しかし、それとて容易に認めるわけにはいきません。何故なら、その「性悪説」を裏付ける一連の言語活動は、二重に張り巡らされた実に慎重な「予防線」によって、むしろ一般化されることを拒んでいるからです。具体的に言えば、その科学者がそもそも天才にありがちな「傲慢さ」を有した人間であると執拗に強調されていることと、透明化を実現する「血清」がその副作用として被験者の性質を凶暴化することが予め行われる動物実験の場面を借りて説明されていること、つまり、此処に再現されたすべてはそれら至って特殊な条件下に於いてのみ有効であり、容易に一般化できる類のものなどでは決してないと示唆されているのです。尤も、それがこの映画自体とは直接的に関係のない「制度」に因るものであるということなど容易に想像できるわけで、其処に露呈されてしまう、他でもない「ハリウッド式商業主義」のそんな腑抜けぶりが、この「変質者の物語」をますます滑稽にもしているのです。「毒にも薬にもならない」とはマサにこのこと。

 公開初日、土曜日の午後、さらには目ぼしい「娯楽大作」も他にないとあって、さすがに混雑していました。いつも観る歌舞伎町の劇場ではなく、滅多に行かない新宿3丁目の劇場まで足を伸ばしたのは、歌舞伎町のそれには「指定席」がなかった故、まあ、私の場合は、良い席で観たいというより、単に入場待ちの行列に参加したくないというだけなのですが。尤も、混雑しているとは言っても、ロラン・バルトなら「空洞」と表現するであろう状況は相変わらず、あるいは「1800円なら観ても3000円では観ない」というアタリに今どきの「映画」の(娯楽としての)価値を発見し得るのかも知れません。私のズボラ加減と歪んだ経済感覚は、差し当たって棚に上げておくとして。


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