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さよならS
監督:エリック・ゾンカ
2000年10月15日(シネ・アミューズ)

 映画を不幸にする制度



 映画を些か不自由にもしている「制度」の一つはその「時間」です。いつからその「制度」が確立されたのか、映画史を紐解いてみれば容易に知れるであろうそれはこの際さて措くとして、既に確立されたその「制度」に従わざるを得ない現状に於いて、上映に際して決められた一定以上の時間を要する映画は「長編」あるいはフィルムの長さをその基準として「長尺」と、逆にその「制度」に反して短いものは、その程度によって「短編」あるいは「中編」と、そんなふうに差別化が為されてしまいます。それが映画にとって如何にも不幸なのは、その「制度」に反するものが単にそう呼ばれてしまうだけでなく、実際それ自体がまるで別の何かであるかのように扱われてしまうこと、それは例えば、映画賞の類に於いて「短編映画部門」など設けられていることにも明らかです。映画が時間的な差違によって、その実質までもが変化してしまうことなど到底あり得ず、従って、その差別化を実現する「制度」とは映画の実質とは余り関係のない、つまり、専ら「興行」に関わるそれであり、例えば、入場料金がフィルムの長さにおよそ比例しているのも、決して偶然などではないのです。勿論、興行としての側面もまた映画の「実質」に関わる重要な部分であることもまた否定できない事実であり、従って、無責任にもそれを「不幸」とばかりも言ってはいられないのですが、しかし、ヒチコックの『ロープ』のような映画でもなければ、そもそもが「断片」の寄せ集めに過ぎないものをその「長さ」で測るというがおかしな話で、100年を10分で語る映画と3時間を2時間で語る映画は、その入場料金の差違が示すほどの単純さを以て本来比較などできないのではないかと、そんなこともまた思うわけです。

 通常より300円安く入場できてしまうこの63分の「中編映画」は、しかし、その実質に於いて、決して何かに劣っているということはありません。否、不必要な説明が至って映画的に省略、排除されているという意味に於いてはむしろ優れているとさえ、例えば舞台がマルセイユに移動する前後などかなり大胆な省略が試みられているのですが、しかし、それが観客の了解を不自由にするどころかむしろ分かり易くさえしているのは、それが至って映画的な、つまり、何と何を「繋ぐ」べきかという感覚に優れた処理によって為され、あるいは時間と空間の断絶を体験させるそのそれぞれの「断片」が既に次への「予感」をも伴っている故、狭いアパートからカフェへ、夜から昼へ、例えばそのぞれぞれに捉えられた少年の「視線」の差違が、其処に横たわる「断絶」を十二分に埋めてもいるのです。さらには、無闇に生き急ごうとする少年の焦燥さえ、その映画的な断絶はまた示唆し得ています。此処に於いて無意味な饒舌はむしろ思考のよどみをしか、加速度を増す少年の至って単調な思考の流れを妨げこそすれ、決して促したりはしないのです。

 さて、この物語が少年の挫折と現実を描いたものであるとするならば、それを象徴的に示しているのが「喉元の傷」であることに異論を挟む人はおそらくいないはずです。「喉元の傷」は二つ、およそ「神話的」に現れるそれと、紛れもない「現実」としてのそれ、前者があくまでも「神話」に過ぎないということが、この物語をますます残酷なものにもしています。其処には最初から何も無くて、少年はただ幻想に踊らされていたに過ぎないと、パン屋で黙々と働く少年の喉元に刻まれた、我々がその痛みと共に立ち会ったその表徴は示唆しているのです。さらに、少年が機械的な動作でパンの表面に入れる「刻み」はもはやある種の諦念とさえ、確かに、少年が物語の最後に示す動作は、何らか幸福な結論を予感させるようではあっても、しかし、それはあくまでも、彼が幻想に踊らされていた時間に失ってしまったものを埋め合わせているだけ、その動作が完了するであろうそう遠くない将来に彼を待ち受けているのは、実はこの物語の始まりと殆ど同じ風景、少年はただ失って、本来の場所に回帰するのさえ手間取っているだけ、彼が何かを獲得したとすれば、それは今後も彼がパンに刻み続けるのであろう「諦念」でしかないのです。

 手持ちカメラによるクロースアップの多用は他でもない傍観者の視線を、それが決して少年の内面にまで入り込まないのは、そもそも映画が人間の内面を豊かに捉え得るのはあくまでも「演出の修辞学」に依拠しているというその単純な理屈を了解していれば、どれほども驚くことでもありません。『ロゼッタ』のそれが偏愛的視線であり得たのは、カメラが被写体に近づくことによってその存在をおよそ意図的に観客に知らしめていた故、此処に於いては、しかし、『ロゼッタ』ほどではないにしろ、カメラが被写体との距離をどれほども置いていないにも関わらず、それはあくまでも映画的「第0人称」の立場で其処に、そうあり得た理由の一つは、カメラが無駄な動きを殆どしていないこと、その動きは物語の必然に漸く支えられている、つまり、決してその「意志」を露呈したりはしないのです。何れにせよ、その傍観者の視線が、此処に示された現実をさらに厳しく、救いのないものにしているのは間違いのないことです。

 映画を観に行くときは、その作品に対する予備知識を殆ど持たずに(精々監督の名前ぐらい)行くものですから、エンドクレジットが流れるまで、この映画の入場料金が通常より安い理由を誤解していました。恥ずかしい話なのですが、私はてっきり「最終週の叩き売り」だとばかり、実際、その「経営努力」にも関わらず、狭いシネアミューズはガラガラでしたし。
 パンフレットには「S君」のアイドル風ペタペタシールが、「Sの魅力が満載! 裏面も要チェック!」とか書いてあるのですが、私はいまだその「裏面」を見つけることができません。余談ですが、この若手男優の誕生日は私と同じです。


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