Index

 
オータム・イン・ニューヨーク
監督:ジョアン・チェン
2000年10月21日(新宿武蔵野館)

 シャロウ・フォーカスの罠



 私はある意味非常に「得」な人間で、と言うのも、映画館という空間に於いて、2時間ただ眠っているだけでも十分に1800円の価値はあると、従って、其処で目撃したものが如何に不出来な映画だったとしても、しかし「カネ返せ!」なんて思うことなどあり得ず、実際、そんなことを思ったのなどこれまでに一度もありません。そもそもの「映画館好き」は病気のようなものとしても、何らか秘訣があるとすれば、事前に他人の評など読まないとか、あるいはそもそも「元を取ろう」とか「得をしよう」などという不埒な動機は持たないとか、そんなところだと思うのですが、まあ、総じて「映画」になど余り期待しないこと、仮に死ぬまでに一本の映画すら観ていない人間がいたとしても、その人間が不幸であるなど、誰にも断言できないわけですから。
 そんな私をしても、しかし、時にはその苦痛に顔を歪めながらもスクリーンと対座し続けなくてはならないこともあって、差し当たって「映画百年の歴史の中で」などとは言わないまでも、しかし、少なくとも私がこれまでに観た映画の中で、間違いなく下から5番目以内には入るであろうこの『オータム・イン・ニューヨーク』という映画も、やはりそんな得難い体験を私にさせてくれた一本でした。以下、「こんな映画は誰一人として観る必要がない」という理由から明らかな「ネタバレ」があるかも知れません。否、「ネタ」とかそんなもの、それすらもないに等しいのがこの映画なのですが。

 象徴的なのが主演の男女二人が秋のセントラルパークを歩く場面、あろうことか、それを焦点を浅くしてたカメラで捉えている、つまり、二人の像にだけピントが合って、まさに表題を視覚化しているはずの背景が単なる「黄色」にまでボヤけているという、その意味するところなど私にはまるで分かりません。白雪姫を仮死に至らしめた毒がトリカブトなのかストリキニーネなのか、そんな情報にどれほどの意味も存在しないのと同様、此処に於ける曖昧なすべては、やはりそれらを何らか明らかにする必要など何処にもなく、何故なら、これもまた子供向けの「おとぎ話」であるに過ぎない故、何かが象徴されているのではなく、我々が目撃できるそれ自体が既に象徴でしかないのです。ありふれた恋愛の物語を揶揄した表現に「ボーイ・ミーツ・ガール」というのがありますが、この如何にも莫迦げたおとぎ話は、その三つの単語を以て表現されるそれをどれほども逸脱することがなく、此処に於ける「ボーイ」はあくまでも「ボーイ」のまま、煩わしくも我々の視界を遮るのです。もう少し分かり易く言えば、此処に於ける「死」は単なる「不在をもたらす装置」でしかなく、また「病」にしても、やはり「死に至らしめる装置」でしかない、それは、塵ほどの誠実さを持ち合わせた人間ならば其処に描かずにはいられないはずの「苦痛」をすら寄せ付けようとはしません。
 否、勿論、これが単なる「おとぎ話」であるならば、無闇な現実主義などそもそも何処にも必要ありませんし、「子供かアタマの弱い人にでも見せておけ」と笑って済ませることもできるのですが、しかし、そう単純でもないところが、この映画の「恐ろしさ」の所以です。例えば、単純化された「死」というものは大抵唐突に訪れるもの、何故ならそれが予感された時点で既に「単純」でなどあり得なくなってしまうからです。然るに、此処に於いては、それが予感されているどころか、スクリーンに在る殆ど全員がその結論に対する「覚悟」まで予め有しており、何よりもその当人が、スクリーンに現れるずっと以前からその宿命を既に受け入れているという、物語的現実の何処を切り取ってみても少しも単純ではないそれを、「ボーイ」と「ガール」の物語にまで単純化してしまうことにそもそもの無理が、つまり、セントラルパークの紅葉を強引にボヤけさせてしまうそれなのです。あらゆるディテールはただ単に状況を混乱させ、その単純さをあたかも美徳であるかのように振る舞う「その他諸々」の登場人物もやはり意図的にボカされたレンズの向こう側で、本来複雑であるはずの彼らの立場を見事に否定されています。「おとぎ話」のつもりならもっとそれらしく、唐突な「死」が善意の人々を悲しませ、明日忘れても何ら惜しくない「教訓」の一つでも垂れ流しておけばそれで良かったのです。

 個人的にはクー・チャンウェイのカメラに期待してもいたのですが、基本的に「トラベラー」の視点で捉えられたニューヨークになど、どれほどの魅力も感じられず、もし其処に何らかの意図があったとするならば、それはむしろ(如何にもおとぎ話らしく)「生活感」を排除するということにあったのかも知れませんが、しかし、表層を上滑りする「軽さ」があるわけでもなし、そもそも件の「シャロウ・フォーカス」にしても、ハリウッドの大スター相手にかなり遠慮しているようなフシも、所謂「適材適所」が如何に重要であるか、そんなことを改めて痛感もしました。

 こんな犯罪にも類する映画が結構な客を集めているというのがどうにも困りもの、カップルというより圧倒的に若い女性の二人組が多かったのですが、こんな映画に何らかの幻想を期待してのことならば、もはや「御愁傷様」としか言い様がありません。尤も、スクリーンがエンドクレジットに切り替わった途端に席を立ち上がる人が多数、それは、本来ならば余韻に浸るべきこの類の映画にしては異例のこと、あるいはこの映画を観た殆どの人が「こんな映画を観てしまった」という事実すら一刻も早く打ち消してしまいたかったということなのかも知れません。少しだけ救われた気がしました。


Index