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スペース カウボーイ
監督:クリント・イーストウッド
2000年10月28日(新宿ピカデリー1)

 庇護者の眼差



 私は、決して誰に頼まれたわけでもなく、此処にこうして映画に関するテクストを書き連ねながらも、しかし、同時に「誰に映画を紹介するつもりもない」と平気で嘯いてもしまう絶望的に捻くれた人間です。ただ、今回に限っては、私のその捻曲がった性根を自ら正して此処にこう書くことにします。これを御覧になった方は是非映画館へ、と。
 そもそも私に促されるまでもなくこの映画を観に行くつもりでいた人、あるいは此処までを読んで既に観に行こうという気になってくれた方は、以下の退屈なテクストを続けて読む必要など何処にもありません。いまだ半信半疑であろう殆どの方と、この捻くれ者の道化ぶりを嗤ってやろうという愛すべき方々は御面倒でも、決して何をお約束できるとも言えないのですが、もう少しだけお付き合いを下さい。
 以下、所謂「ネタバレ」には細心の注意を払ったつもりでいます。また、例えば、余りにも質の悪いハリウッド映画を多く観過ぎた人達が物足りなさを感じてしまうのであろうある重要な場面が、実は映画的に何一つ不足しているわけでもないとか、あるいは、この映画のラストシーンは有象無象には決して真似の出来ない然るべき「演出」が為されており(あるいは「節度」が守られているとも)、それ故にこそ其処に深い意味がもたらされているとか、そんなふうな、いつも書いている嘘か本当かも分からないような稚拙な技術論も、書きながら余りにも無粋だと感じた故に割愛しました。
 ちなみに、私がこの映画を観たのは先行オールナイトの最終、深夜2時過ぎからの回でした。それでは皆さん、映画館でお会いしましょう。

 この映画が、その表題から容易に想像される通り、俳優クリント・イーストウッドの原点とも言える西部劇的な要素が多く取り入れられた、あるいは単にその状況設定を宇宙に移行しただけの作品と言っても決して過言ではないことなど、既に多くの人間あるいはメディアによって語られていることであり、今さら私がその詳細を繰り返すまでもありません。いつものように、否、相変わらずと言うべきか、現場の上司あるいは上官と対峙する彼がスクリーンを差す鋭い視線、ブラインドを通り抜けた光線が視線の鋭さを強調するそれさえもやはりいつもと同じ、我々は其処に我々のよく知っている、70歳という年齢などまるで感じさせない頼もしい彼を発見します。彼は相変わらず好色で、NASAの生意気なスタッフなど「ゲット・アウト!」の一言で追い返してしまいます。彼とそんな彼に何よりもの安堵感を覚える我々に対して「ワンパターン」などと無粋なことを言うのはどうか止めて下さい。我々はともかく、彼はただ「ジャンル映画」の伝統を愚直なまでに守り続けているだけなのです。

 しかし、物語が進むに連れていつもとは少し様子が違っていることに気が付きます。何よりも明らかなのは、ある時期以後の彼が、腕利きのガンマンとして、刑事として、あるいは軍人として、常にそうであったような「教育者」の立場を既に抛棄しているということです。気の置けない仲間達に加えて、二人の生意気な若者を引き連れて宇宙へと飛び立つ彼は、ベテランの意地をその若者達に見せつけこそすれ、しかし、彼らに何かを教えようとは、少なくとも積極的にそうしようとはしません。物語的なことで言えば、実は若者達の視線が彼の活躍に注がれることすらないのです。それは一つには「もう何も教えることはない」という立場に彼が至ったということ、実際その若者達はある意味に於いて既に彼よりも余程優秀な存在でもあり、また、彼はあくまでも「時代遅れ」な装置を扱うために其処に在るという物語的な状況をしても、それを察することができます。勿論、そんなことは今までにも何度も繰り返されてきたことで、その都度彼は、それら若者達には足りない「経験」を示すことによって、見事「教育者」としての成功を収めてきたのです。此処に於いてもやはり同様のことは可能だったはず、しかし、それでもやはりその立場を抛棄しているのは、もはや彼の年齢とその自覚がそうさせていると考えるより他にはないのです。老兵は如何にして去るか、殊勝にも、もはや「教育者」であることすら烏滸がましいと自覚し、その身を引く前に「最後に一つくらい夢を叶えさせてくれ」と、彼は宇宙に飛び立つのです。

 此処に在るのは、例えば、イングマール・ベルイマンの『野いちご』のそれにも匹敵する、老境に差し掛かった人間の重い死生観です。最後に夢を一つ、それが俄には信じ難い奇跡的な可能性を克服して実現されたとしても、しかし、人間は「老い」の次に訪れるものを甘んじて受け入れざるを得ない、其処に「奇跡」など期待すべくもない無力な存在こそが人間であると、そんなことが示されてもいます。勿論、彼はただ最後の贅沢を愉しませてもらうという気楽な立場でのみ其処にいるわけでは決してありません。より「死」に近い立場にある人間として、既にそれを受け入れた人間にしか持ち得ない尊い「覚悟」を以て、後に残される若い世代に対するあるべき態度を示してもいます。彼は「教育者」ではなく、言うなれば「庇護者」として其処にいるのです。些細な「非現実」にめくじらを立てる不幸な人達は、其処に在る紛れもない「現実」を見逃しているのでしょうか? 上滑りする「非現実」を装いながらも、しかし、揺るぎのない方法論によって、誰しもが認めざるを得ない「現実」をもまた示唆する、それを「最良」と呼ばずして、否、それこそが「映画」というものではないでしょうか?

 そんなことのすべてが示唆されている、美しくも重い、そして「軽く」さえあるこの映画のラストシーンは、『2001年 宇宙の旅』のそれと同等かあるいはそれ以上にも映画的で意義深いものであると、私はそう信じて疑いません。

 蛇足ながら、彼が最後から2番目のカットで見せた、我々にまるで覚えのない、余りにも優し過ぎるその眼差しが、しかし、我々を暗い不安に陥れもすることを付け加えておきます。我々は、我々と彼との間にある避け難い「現実」をもまた其処に発見せざるを得ないのです。我々は後何回、彼の「新作」に立ち会うことができるのでしょうか?


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