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倦怠
監督:セドリック・カーン
2000年10月28日(イメージフォーラム2)

 あるいはロカンタンの孤独



 倦怠とは一種の現実感の欠如、不充足、もしくは稀薄な状態なのである。

 アルベルト・モラヴィアは「倦怠」という概念、あるいは状態をこのように説明しています。もう少し具体的に説明している箇所を要約すれば、例えば「コップ」というものを本来的な道具として認識する限りに於いてはそれと自身との繋がり、さらには自身の存在をも確信することができるが、しかし、一旦それが不条理な、言わば「物自体」として認識されてしまうと、其処に自身との繋がりを何ら発見できなくなり、自身をもまた見失い其処に「倦怠」という悪しき状態が生じてしまうと、あるいはサルトルの『嘔吐』のそれにも近い感覚なのかも知れません。
 始まって2秒後にもこの映画の、少なくとも原作小説の再現という意味に於ける、成功を確信したのは、タイトルバックの映像が既にモラヴィアが定義する「倦怠」を至って映画的に表現し得ていたからです。おそらくは主人公の視点を借りているのであろう流れる街の夜景は、何一つにも焦点が合っておらず、まるでボヤけた状態、その時点での主人公と現実との関係の稀薄さが視覚化されているわけです。

 倦怠に始まって倦怠に終わるこの映画が、同時に自動車(の運動)に始まって自動車に終わるものでもあるという事実は決して偶然などではありません。タイトルバックの映像が他でもない自動車を運転する主人公の視線であることからも容易に知れるように、此処に於いて「自動車」という如何にも映画的な装置は、同時にまた倦怠の装置でもあるのです。映画の中に何度も現れる、主人公が一心不乱にハンドルを握る場面は、まさに主人公が倦怠に囚われている状況であり、其処に於いてもやはりカメラはその特性を存分に生かして至って映画的な表現によってその状況を説明します。それは、スクリーンの左側に左ハンドルを握る主人公、右側にその移動に伴って流れて行く外景が撮されるカット、この映画の中に何度か現れるこの映像が些か異常なのは、通常ならば外景の方が幾分ボヤけてしまうはずのそれが、此処に於いてはしかし、その両方に焦点が合わせられ主人公の顔も外景も均等な明瞭さを、結果として両者の間の距離感が消滅しているのです。技術的なことで言えばレンズの焦点を深くして撮ればそのような映像が可能に、映画史的には『市民ケーン』のそれなどが有名ですが、一般的にはスクリーン全体に観客の注意を向けさせるような場合に用いられる手法と言えます。しかし、此処に於いてはその一般的な用途とはまるで無関係にそんな映像が、それを些か異常と感じてしまう所以でもあるのですが、これもやはり主人公と現実との関係性を示唆したものであると理解すべきでしょう。
 そもそも人間の視覚というのは、ある一つのものに焦点を合わせれば、それ以外のものは必然的にボヤけてしまうわけで、それを正常とすれば、すべてがボヤけていたり、その逆にすべてが明瞭であるようなのはやはり異常、モラヴィアが示した「コップ」の例に倣えば、コップという一つの現実と関わる場合、それを正常に捉えた視線はそれのみを明瞭に映しそれ以外はボヤけさせる、その状態こそが現実との正常な関わり合いを意味するとするならば、コップを注視してもそれがボヤけていたり、それ以外のすべてのものまでもが明瞭に映ってしまうのは、その視線の主体が現実との関わり合いに何処か異常を来している、あるいはその関係性が稀薄である何よりもの証左と、主人公が取り憑かれてしまったその異常な精神状態を、人間の視覚より幾分融通の利くカメラの特性を利用することによって見事に映像化し得たのがこの映画、原作小説の忠実な再現と言えます。尤も、タイトルバックあるいは(ごく短い)主人公の主観ショットの類でもなければ、その方がむしろ分かり易いとはいえ、すべての焦点を外してしまうなど映画として自殺行為にも等しいわけですから、些か分かり辛いながらもその逆の方法によって主人公と現実の距離感を無効に、それが唯一「自動車の場面」にのみ実現されていることからしても、此処に於いては取り分け「自動車」が主人公の倦怠を促す、あるいはそれを象徴した装置であると、そんな理解もまた十分にあり得るわけです。
 セシリアという「現実」を求めて、つまり「倦怠」から必死に逃れようと最後の最後に主人公が自分自身の足で「全力疾走」する場面が取り分け感動的なのも、彼のその躍動感溢れる(映画的)運動が、決して「倦怠の装置」によるものではない、奇跡的にその装置の支配から逃れ得てもさえいるからに他ならず、それはこの映画を通して、この主人公が現実との関係性に於いて、最も「正常」であり得た瞬間ともまた言えるのです。尤も、状況に絶望した彼は再び「倦怠の装置」に、倦怠に始まった映画は、やはり倦怠に終わるのです。

 倦怠の視覚化という意味に於いて最も分かり易いのは、映画の冒頭から暫くの間続く手持ちカメラによる些かルーズな映像のそれ、ただ、これは余りにも在り来たりで、どれほども魅力的とは言えません。また、主人公の部屋やセシリアの家、あるいはその他の景色の殆どが「薄汚れた白」を基調とした如何にも殺風景なものであるのは、やはり主人公と現実の関係性の稀薄さを表現するための方法の一つと言えるのでしょう。最後のセックスをする場面、物語状況的に主人公の部屋であるはずのその場所が、それまでとは違って何故か豊かな色彩に溢れているのも、主人公がセシリアという「現実」を一時的にも捉えた瞬間が視覚化されているからに他なりません。

 ソフィという主人公の前妻は原作小説には存在しない、この映画のオリジナルな登場人物です。彼女が至って映画的に「配置」された人物であるというのは、主人公がセシリアとの関係、あるいはその関係に於ける意識を彼女に逐一報告するという些か滑稽な状況にも明らかです。相手のことなどまるで構わず一方的に語る主人公のそれは殆どモノローグにも等しいもの、つまりモノローグという些か「反=映画的」な手法を回避しつつ、主人公の内的独白を実現するためにのみ配置された人物と言っても間違いはないはずです。モノローグだけでも実は十分に成立してしまう「文学」というものを、それのみでは、少なくとも観客の興味を惹くような形では、成立し得ない「映画」に置き換える場合の、十分に許容され得る「便宜」の一つと言えるのでしょう。

 イメージフォーラムという比較的新しい映画館に行ったのは初めて、観客席のスペースの割にはスクリーンが大きくて何となく得をした気分にもなるのですが、しかし、あの構造では観客席の前から3分の1ぐらいが殆ど無駄になってしまうと言うか、前に座るとかなり観辛くなってしまうのではないでしょうか。それに加えて、無理に席数を増やしている所為か、客席の前後幅が狭く(身長が高い分)足が長い上に姿勢の悪い私などにはかなり窮屈、パチンコ屋にでもいるような感じです。ロビーの狭さも併せて、混雑時には避けるべき映画館の一つですね。
 公開初日、土曜日の午後で観客の入りは7割程度、実は翌日も同じ劇場の別フロアで別の映画を観たのですが、その序でに確認した限りでは、日曜日もやはり同様の入り具合だでした。何故か年輩の男性客が多いようにも感じられたのですが、しかし、その理由は不明、また「18禁」の割には女子高生と思しきも散見されたのですが、カモフラージュのつもりか化粧をいつもより(多分)厚めにしているのが何となく不自然な感じも、それでも観たいという熱意には頭の下がる思いです。


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