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アンジェラの灰
監督:アラン・パーカー
2000年11月4日(シネマ・カリテ1)

 ロシアの文豪曰く



 ロシアの文豪曰く、「幸福な家庭は皆一様に幸福だが、不幸な家庭はしかし皆様々に不幸である」と。しかし、此処にあるのはおよそ「一様な不幸」の物語であり、それはこの原作が多くの「共感」を得てベストセラーにまでなったことにも明らかです。彼の文豪はその一節をして物語のあるべきを説いたわけでは決してありません。しかし、その共感の装置たる「一様な不幸」が、残念ながらこの物語の底を些か浅くしているのは疑いようのない事実です。しかも、悪いことに、これは「自伝」という言わば「約束された物語」の再現に過ぎず、其処に於いては「最悪の不幸」などその予感すらあり得ない、予めそう約束されているにも等しいのです。さらには、此処で語られているよりさらに成長した、既に「自伝作者」ですらある主人公によるナレーションという、如何にも凡庸な話法がその忌々しい「約束」をさらに強く裏付けてもいます。一見してその詳細が徹底して描かれているかのようにもみえるこの「一様な不幸」は、しかし、予め在るその「約束」に支えられてこそ、「それなりに幸福であろう結論」に至る過程に於ける些か間延びした時間をある種の「退屈さ」から遠ざけるために、その隙間を埋めるべく「配置」されているに過ぎません。一様にして、幸福すら約束されている「不幸」の物語、それは「退屈」以外の何ものでもありません。

 ジョン・レノン曰く、「ビートルズはキリストより有名である」と。此処に於いてはおよそこんなふうに、「アメリカはキリストより寛容である」と。アメリカとキリストの対置は至る所に、自由の女神が飾られたパブは言わずもがな、教会で施しを受ける場面に於いてはスクリーンの一角に必ず十字架に磔られたキリスト像が、我々はそれを如何にも意味ありげで実に厭らしい構図(まるで顔を背けているような)として目撃することになります。主人公の心を癒すのが、此処に於いて徹底的に茶化されてもいる教会での懺悔などでは決してなく、ラジオから流れるビリー・ホリディやハリウッド映画であるは、もはや挑戦的ですらあります。この映画のロケーション撮影に際して、現地の教会関係から殆ど拒絶にも等しい態度を取られてしまったのも道理、此処に於いてそれは無力であるどころか、むしろ人間を不幸に至らしめる元凶のようにすら描かれているわけですから。他方、鼻持ちならないくらいにも賛美されているアメリカはこの原作をベストセラーに、世の中は至って単純、その単純さが時として招いてもしまう不寛容こそが何かを不幸にしていると、そんなふうにもまた思い至ってしまいます。

 この映画に良いところがあるとすれば、それは「傾斜」と「水」のイメージ。此処に描かれているアイルランドの貧しい街並みは何処をみても其処に傾斜を発見することができます。IRAに拒絶された父子は如何にも重苦しい足取りで坂道を上り、職を得た主人公の自転車は坂道を軽やかに滑降します。そして何よりも、それが傾いているお陰で、降り続く雨は常に路面を流れて往き、決して淀みを作ることがありません。淀みなく流れる水のイメージが次には河となり(帳面を投げ捨てる場面)さらには海へと(アメリカへの旅立ち)、そのイメージの連鎖は「子供を殺す」厭わしい雨ですら、至って肯定的な予感へと物語を導いて往くのです。この物語に於いて唯一「淀み」を発見できるのが、主人公の家族が暮らす貧しい家に浸水したそれであるというのが如何にも象徴的、降り続く雨ですら主人公の旅立ちを促しているのです。

 この映画の良し悪しとは特に関係のない話。私が、不幸の中にも一つの希望を発見し得たこの「成功譚」を今一つ素直に容認できないのは、すべての人間が首尾良く成功を収め何らか語り得る術を獲得できるわけでもないという道理と、相も変わらず「不幸」であり続ける人達を比較的身近に置いて日々を遣り過ごしているからなの知れません。此処にはともすれば「ノスタルジー」が、初めにも書いたように、これが既に過ぎ去った時間であるが故に、あらゆる不幸あらゆる悲惨が此処に許容されているのは紛れもない事実、それは、それを直視することへの罪悪感すら巧妙に取り除いているのです。要は極め付けの悪趣味ということ。

 新宿のシネマカリテという映画館がそもそも狭いということもあるのですが、公開2週目の土曜日午後の回は立見の出る盛況ぶりでした。アメリカではベストセラーになった原作も、日本ではどれほども注目されなかったようなのですが、映画の方のこの人気ぶりはさて、アラン・パーカー監督の人気なのでしょうか?


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