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ブラッドシンプル/ザ・スリラー
監督:ジョエル・コーエン
2000年11月5日(シネマライズ1)

 サディストの快楽



 あらゆる映画に於いて、カメラが「神の視座」を獲得しているのなど今さら言うまでもありません。勿論、カメラが其処に在るすべてを常に捉え得ているとは限りませんし、また、ある種のリアリスムを追求する場面に於いて、自らがそれを抛棄することすらあり得ます。しかし、それはあくまでもカメラの意志に拠るもの、仮に其処に何かが足りないにしても、それは「見えない」ではなく「見せない」という意志の結果なのです。その「見せる」あるいは「見せない」という意志は、勿論、観客に対するもの、従って、スクリーンと対座する観客が其処に発見し得るのは、あくまでもカメラがその意志の結果として示したものに限られるわけです。
 重要なのは、カメラがあくまでも「透明人間」であるということ、つまり自身の視点を操作することによって観客の視点を操作しこそすれ、カメラが実際に捉えている対象の視点までをも何らか操作することは不可能、従って、其処には必然として視座の「段差」が生じてもしまうのですが、しかし、その「段差」こそが、例えば、文学などではあり得ない、映画独自のダイナミズムをもまた生み出しているのです。

 この映画に登場する4人の主要な人物は、そのそれぞれが少しずつ状況に対する理解に欠ける、あるいは誤解をしており、その齟齬こそが物語を進行させる動力と、否、それどころか、その齟齬がこの映画を終わらせてさえしまうのです。肝要なのは、其処に齟齬が存在していることを我々が了解しているということ、それはカメラがその意志として、観客に(カメラが実際に捉えている対象に対してより)より多くの情報を提供しているからに他なりません。その4人の中に於いて、すべての状況を理解し、むしろ状況を操作しているとさえ言える「探偵」ですら、しかし、こと「ライターの所在」に関して言えば、観客に(憎むべき彼に対してすら)もどかしさを覚えさせてしまうほどにも無知な存在であるに過ぎません。其処で殺人を犯し、あるいは自滅する人間達は、余りにも無知であるが故に、観客にとっては憐れなくらいもどかしい存在と、観客をそのような立場に置く、つまり、我々が彼らとは対照的に全知であり得るのが他でもない「カメラの意志」であるのなどもはや繰り返すまでないことでしょう。
 サスペンス映画に於いては、この映画のように観客を全知とすることが必ずしも一般的であるとは言えません。むしろ、誰かの視点を共有することによって彼に「見えない」ものをもまた共有する、あるいは、それが「見えてくる」過程を疑似体験するのこそが正統と言えるのかも知れません。すべてを見せてしまうことは、観客からある種の「愉しみ」を奪い取ってもしまうことにもなり、その意味に於いて、この映画からも、例えば「謎解き」の興味は奪われてもいます。しかし、此処に於いては齟齬が存在する(つまり観客がそれを了解している)からこそ映画が「動く」のであり、些か大仰に換言するならば、すべてを知る観客こそが映画を「動かしている」と、この映画の何よりの快楽は其処に、観客が彼らに何一つ教えることができない「もどかしさ」を常に抱えているからこそ、彼らは愚かしくも判断を誤らせ、皮肉なことに、それが物語を持続させてもいるのです。秀逸なのは、その齟齬が物語の持続を約束しているのみならず、見事に終わらせもしていること、観客は終に何一つすら彼らに教えることはできないのです。映画の快楽の一つが、スクリーンを介して対座する両者が何かを「共有」することにあるとするならば、此処に於いては何一つの「共有」もあり得ないことこそがむしろ快楽と、観客が常に優位にあることからすれば、それはサディストの快楽にも似ているのかも知れません。それも勿論カメラの仕業、カメラは我々の嗜好すらも、否、それこそが「神の視座」に在るとする所以なのです。

 映画史的に、とまでは言わないせよ、おそらくは有名なのであろうこの映画ラスト近くの、あるいは「映画」それ自体のメタファーとも言える「壁の穴」が素晴らしいのは、それが如何にも映画的な「嘘」である故、どんな拳銃で壁を撃ったにせよ、あんな正円形の穴が開いたりしないことなど小学生でも分かるはずです。映画が所詮「虚構=嘘」に過ぎないのなど、そもそも「神の視座」など何処にも存在しないことにも明らか、従って、映画の弱点でもあるその動かし難い「事実」を如何に逆用し開き直るかが肝要、映画がむしろ「現実」以上の言わば「映画的現実」を獲得し得るのも、そんな山師的才能を得たればこそ、あの「壁の穴」はまさに山師の仕業です。
 もう一つ、この映画の最後の最後(ラスト・カット)でその視座が、それまではそれを奪われていた故に(観客にとって)単にもどかしい存在でしかなかったスクリーン上の人物に、漸く譲られるという人を喰ったような「計らい」が為されているのですが、これもまた如何にも映画的なユーモアと言えます。

 日曜日の午後、公開二日目の割には漸く7割といった程度、近くで映画祭が行われている影響か、あるいはこの作品が旧作の再編集版に過ぎない所為か、何れにせよ、寂しい状況であることに変わりはありません。
 少し前までは寒過ぎる感もあった映画館(一般)なのですが、この日はむしろ暑過ぎるくらい、季節の変わり目ということもあって空調の加減にも一苦労のようです。


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