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サン・ピエールの生命
監督:パトリス・ルコント
2000年11月11日(シネスイッチ銀座2)

 海が連れてくるもの



 映画に於ける「カメラ目線」が所謂「異化」の装置であるのなど今さら言うまでもないこと、それは観客に軽い驚きを与えると同時に、スクリーンに在るものをより客観視するやう働きかけます。演劇のそれは、舞台上の人物が観客に直接語り掛けるという些か突飛な動作が観客を覚醒させることによってその効果を得るのですが、映画の場合は、それと同時に、その動作によって、本来其処に存在しないはずのもの、つまり「カメラ」の存在を観客に強く意識させることによって、其処にさらなる「距離感」を捏造するのです。この映画は、白い部屋の隅、窓越しに外を見つめるジュリエット・ビノシュにゆっくりとカメラが近づいて往き、至近で立ち止まるそれに彼女が一瞥を投げかけたところから物語が始まり、そして、その彼女の視線を捉えたまま、今度はゆっくりと彼女から遠ざかって往くところで物語が終わります。物語を丁度挟み込んでいるこの視線もやはり「異化」の装置、遠い時代、遠い世界の物語を、その視線が「現在」へと引き継ぐのです。
 この映画が、単に其処に在る物語に心地良く溺れることばかりを決して欲してなどいないのは、例えば、統治総督に代表される権力者が常に(個人ではなく)「集団」としてその滑稽な様を我々に示していることにも明らか、彼らは決して「統治総督とその一派」などという特定の存在ではなく、あくまでも(象徴的に描かれた)「権力」であり「(不条理極まりない)法」であると、従って、軍隊長ジャンとの対峙は取りも直さず「個人の信念」と「法」の対峙であり、それはこの遠い物語の小さな枠になど最初から収まってはいないのです。この映画を観終えた人が、漠然と「愛」について、あるいは「死刑制度」について、この物語の枠を越えて些か抽象的な思念に陥ったとしても、しかし、それは至って正常な動作、何故なら、それこそが此処に企図されたことだからです。「何かを考えさせる映画」とはつまりそういうもの、この理屈を丁度裏返しにすれば、例えば、『クレイドル・ウィル・ロック』という其処に「政治性」を企図したはずの映画が(その意味に於いて)如何に「思考停止」であるかが分かるはずです。

 この物語の舞台となっているフランス領カナダ、サン・ピエール島が、まさしく「島」である故に、四方を海に囲まれ、その海が「連れてくる」ものが悉く異化の装置であるというのは、「島国」に暮らす我々にはどれほども難しい発想でもありません。ニール、ギロチン、馬(秋晴れの空に高く吊されたそれは明らかに何かを予感させます)、死刑執行人、それらはまさしく「海」が連れてきたものであり、また、軍隊長夫妻を含めた此処に登場する殆どの人物があくまでも本国からの赴任者であるということ(不幸な運命を辿るジャンが何処に帰るか、象徴的に示されるそれをみれば明らか)を考え合わせれば、あるいは島民を除くすべてがそうだとも言えます。従って、それらが「異化の装置」であるという意味に於いて、それらを認識する我々の視点は島民のそれにも通じるものがあり、例えば、ニールという人物に対する認識の変化など、島民のそれを等しく共有していると言えます。また、例えば、ギロチンが単なる「処刑の道具」などではなく、「不条理な運命の装置」であるのも、やはり我々と島民の認識にどれほどの違いもありません。
 しかし、それらの装置を個別に認識する次元に於いては何一つ物語が成立しないのもまた明らかなことで、従って、其処に物語を発見し得る「観客」と必ずしもそうでない「島民」が差別化されるのは、それら装置間に生じる関係性に対する認識の差異に拠ると言えるわけです。例えば、ニールとマダム・ラの関係、殆どの島民が其処に下品な想像を働かせこそすれ、しかし、観客が容易に発見し得る「母性愛」にも似たそれを見出すことは不可能、此処に於ける物語はそれら装置間の鬩ぎ合いの上に初めて成立するのであり、何らか抽象化される思念もまた其処に生まれるのです。
 他でもない「映画」によって、島民よりも余程その「教養」を見込まれた我々が既にして「特権的」であるのなど、実はまるで当たり前の話なのですが、しかし、映画が我々に何かを「差し出す」という動作は、つまり、此処で差別化が実現されたまさにそれなのであり、そんなことを改めて意識してみると、我々が何を期待し、あるいは期待され其処、即ち映画館の暗闇に在るのかということもまた実感できるような気がします。

 手持ちカメラの多用、不安定な構図、急激なズームアップやパン移動、当然ながら、これらはすべて意図されたものであり、俗に言う「ヘタウマ」の映像です。極めて不安定な移動の末に立ち止まったカメラが見事なまでに美しい構図を捉えるそれは、その美しさを一層際立たせることにもなっています。この物語ならば視線を安定させて、もっと「余情的」に撮るという選択肢もあったと思うのですが、しかし、敢えてその表層に観客の注意を向けさせるような撮り方が為されたのは、やはり観客がその「物語」に必要以上に溺れないよう、そんな配慮であるようにも思われます。俳優の演技に拠らず、むしろカメラ自身の表情によって何らか感情表現が為されるのも、やはり至って映画的な「異化」の試みと言えるのでしょう。

 さて、真当な映画評論とは、斯様な手続きを経て「差し出されたもの」をあれこれ吟味することから始める、あるいはそれこそが本来だとも思うのですが、しかし、私は差し当たってそんなことには興味を持てないので、何かを宙吊りにしたまま話を終えてしまうつもりでいます。勿論、此処で論ずべき幾つかのこと(例えば「愛」とか)に興味が持てないというわけでは決してなくて、あくまでも、それを此処に並べるという動作にどれほどの興味も持てないということです。

 と、それもどうかと思うので、好きな場面を一つだけ。ジャンが陸を離れる場面、彼同様にやはり海が連れてきた見事な青鹿毛の馬が、其処に抛たれはするものの、しかし、決して海には至ることはできない、そんなことが示唆された印象的なカットが挟み込まれてもいるのですが、海に帰らざるを得ないものと帰れないのもの、其処に示されているのはまさに「別れ」です。

 土曜日の午前中の回、劇場自体の開場前から行列は出来ていたものの、しかし、結局は全体の半分が埋まっているかどうかという程度でした。午前中の回ということもあったのかも知れませんが、次の回に出来ていた行列も然程でもなくて、如何にも「シネスイッチ的」なプログラムの割には、どれほども人気にはなっていないようです。パトリス・ルコントにジュリエット・ビノシュ、もう少し人を集めても良さそうな気もします。高齢者の割合は「シネスイッチ的」に高かったのですが。


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