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チャーリーズ エンジェル
監督:マックジー
2000年11月12日(新宿プラザ)

 斯くて無意味は浮遊する



 例えば、『60セカンズ』のような映画を「何も考えずに愉しむ莫迦映画」と評する人がいるようですが、私は決してそうとは思いません。『アルマゲドン』にしても然り。私にしてみれば、それらは「アタマの弱い人達を喜ばせる映画」ではあっても、決して何も考えずに済む「莫迦映画」などではありません。近年のハリウッド式娯楽映画というのは往々にしてそう、一見して荒唐無稽な「非現実」を装いながらも、しかし、巧妙に小市民的共感を促す、安易な同化の装置が予め仕組まれてもおり、その共感が捏造するある種の「節度」が、その「非現実」を悉く退屈なものにしてしまうのです。もし仮にそれが「何も考えずに済む」ものだとするならば、それは「アタマを空っぽにする」ということではなく、既にアタマの中に在るものと「無意識的な同調を果たす」ということ、その同調を許さない、あるいは其処に同調し得る何らかがそもそも欠けている人間にしてみれば、これほど煩わしい装置もありません。
 さて、こんな話を続けていると長くなり過ぎてもしまいますから中途半端に話を止めざるを得ないのですが、以下に話を続ける『チャーリーズ・エンジェル』という映画に関しては、少なくともそんな煩わしさとは無縁、我々が其処に何一つの共感をも見出せないことを以て、エンターテイメントの一つの理想を実現しているとも言えます。

 この映画のクライマックス、エンジェル達の敵役である悪党が、積年の恨みを晴らすべくある人物を殺そうとするのですが、この映画の持つ(良い意味での)「軽さ」は、その場面に集約されています。その悪党がどんな方法でその人物を殺す、積年の恨みを晴らそうとしたのかと言えば、ヘリコプターに乗った上空から相手の屋敷ごとミサイルで破壊しようと、それが如何にも「反=物語的」なのです。それと言うのも、その「恨み」こそが実はこの物語の起点と、此処に展開するエンジェル達の目を見張る活躍も、あるいはそれと対峙する悪党の悪辣ぶりも、すべてはこの歪んだ「恨み」がその根拠となっているのですが、しかし、それにも関わらず、この悪党は恨むべき相手を何ら罵倒するでもなく、それどころか、相手の顔すら確認することなく、当たり前のように上空遙かからボタン一発で片を付けてしまおうとするのです。このような場合、通常の物語ならば、これみよがしに1対1の決闘の場面などが用意され、散々に相手を罵った挙げ句、互いに刃物を振り回してみたり、あるいは組んず解れつの掴み合いを演じてみたりして、漸くと然るべき決着をみるというのが相場、物語的な「恨み」の着地点とはおよそそういうもの、それが非現実的な、如何にも映画的な場面を捏造するにせよ、しかし、映画あるいは物語とはそもそもそういうものなのです。従って、此処に於ける悪党のその動作は、それまでの物語を動かしていたはずのものすら完全に無効としてしまうわけで、結果として、その表層だけを見事に残す、つまり、キャメロン・ディアスのセクシーなダンスやドリュー・バリモアの些か無理のあるワイヤーアクションが、そもそも物語的な何かによって動かされていたのでは決してなく、ただ単に、要は「無意味」にスクリーン上を浮遊していたに過ぎないと改めて観客に教えるのです。彼女らが「物語」に対してすら自由な存在である、と言うより、そもそも此処には何かを収束に至らしめる「説話論的磁場」ですら存在していないのです。此処に於ける絶妙な「軽さ」の正体とは即ちそれ、単にエンジェル達の些か滑稽な身振りがそんな雰囲気を醸し出しているのではなく、その身振りを何ものにも従属しない徹底的な「無意味」にまで落としてしまう物語構造にこそ、その「軽さ」の理由が隠されているのです。

 オープニングのダラダラと緊張感の欠片もない長回しが既にある種の快楽を予感させるこの映画は、その表層に於いても十分にその「軽さ」を堪能できます。「映画的記憶」などという表現とはまるで縁のない夥しい引用群、テレビシリーズのリメイクであることを殊さらに強調する些か莫迦げた身振り、如何にも70年代的な「マルチスクリーン」の活用等々、しかし、それでいてアクションシーンのカット割りなど意外と恰好良くて、どの場面だったかは失念してしまいましたが、(同じ位置からの)俯瞰気味のロングショットを頻繁に割り込ませる言わば「監視カメラ的」な切り返しとか、そんなところにもこの映画の愉しみがあります。そもそも「3」という数字が映画的に様になることに加えて、此処に於いてはそれを如何に格好良く捉えるかが第一義とされており、その利点が最大限に活かされてもいます。
 勿論、それだけと言えばそれだけの映画、決して何かが心に残ったりなどしないのですが、しかし、此処まで何も残らない映画も滅多になくて、例えば、トム・クルーズのあの無様な「真剣さ」が残した疲労感すら此処にはありません。トム・クルーズのそれでは物語がアクションシーンに従属するという如何にも予定調和的な「嫌らしさ」もあったのですが、此処に於いてはしかし、既述の通り、そもそも物語自体が存在しないにも等しいわけですから、従属も予定調和も、そんなもの一切あり得ないのです。これこそが「莫迦映画」、愛おしいまでの莫迦さ加減です。

 公開初日の土曜日の午後、さすがに後の集計で興行成績第1位となるだけあって、歌舞伎町の大劇場は超満員、既に予告編が始まっている状況で滑り込んだ関係で一般席は諦めて指定席を、「超満員」でありながらも指定席エリアだけは何故かガラガラなのは毎度のことです。しかし、ホンの半年くらい前までは、この類の映画の上映中は必ずと言って良いくらい彼方此方で携帯電話が鳴って煩わしい思いをしたものですが、最近ではそういうことも殆どなくなったような、「教育」にもまだまだ成果を期待できるようです。


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