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NO FUTURE
監督:ジュリアン・テンプル
2000年11月16日(シネセゾン渋谷)

 センチメンタルな告白



 ツェッペリンのような音楽をやるにはギターを百年練習しなくちゃいけないけど、オレ達の音楽だったらそんな必要はない。誰だって明日からでも始められる。

 中学生の頃、ある音楽番組で「クラッシュ」のメンバーの一人がそんな発言を、それは私のパンク嫌いを決定的にしたものでもありました。当時、ギターを始めて丁度一年くらいの頃で、何となく莫迦にされたような気がしたことも確かにあるのですが、しかしそもそも、音楽と言わず、映画にしてもそうですが、「メッセージ=言語活動」それ自体が重要なのではなく、あくまでも「非=言語的」な媒体によってそれを如何に伝達するか、表現それ自体が重要であると、そんなことを思う人間にしてみれば、「媒体など所詮二次的なものに過ぎない」と言っているにも等しいその発言が面白いはずもありません。其処から切り取られる「メッセージ」だけを問題とするならば、彼らの音楽に耳を傾ける必要など何処にもなくて、それはカール・マルクス、否、精々タブロイド誌でも眺めておけば十分に事足りてしまうわけで、それでもそんな音楽を有り難がる人間がいるとすれば、それは活字を追うことを1秒たりともしないような怠惰極まりないな人間であると、そんなふうにも思っていました。

 その「クラッシュ」に多大な影響を与えた「セックス・ピストルズ」の活動を記録したこのドキュメンタリー映画が、何よりも先ず、当時の社会状況の丁寧な説明から始まるのは、そのバンドに代表される所謂「パンク」が、それらを抜きにしては到底語り得ない存在である故、その「ムーブメント」から既に二十年以上の時を経ている現在、それを直接には体験していない多くの世代に何らか理解を求めるのならば、そうするより他にはないとも言えます。つまり、純粋に音楽だけを切り取って其処に提示しても殆ど意味を為さないということ、ありふれたロックンロールに些か思慮の欠けた言葉を撒き散らした騒々しい音楽、実はそれだけのものに過ぎないのです。酷い言い草と思うなかれ、それは彼らとて認めている、否、むしろ積極的に自認してさえいるのは、冒頭に引用した発言にも明らか、「誰だって明日からでも始められる音楽」がそれ自体で何らかの価値を有するなどあり得ないのです。

 ロックスターの類を扱ったドキュメンタリー映画の存在意義の一つは、その虚像の否定にあります。確かに、ただ単に虚像を上塗りするだけの宣伝映画紛いも少なくはありませんが、しかし、むしろ被対象者の側がその積極的な否定を企図することも決して珍しくはありません。虚像の否定という些か冷笑的な態度も、やはりロックスターの特権の一つなのです。此処に於いて企図されているのもやはりそれ、既に二十年の時を経た現在、其処にあったらしい「真実」を正しく伝えるためにのみ、この映画は存在しているのです。しかし、その行為が如何にも莫迦げているのは、既述の通り、このバンド、あるいはそれに端を発した「ムーブメント」が、その音楽やメンバーの人為を切り取ったところで、何一つ成立し得ないものである故、虚像とはあくまでも社会との関係に於いて生まれるのであり、この映画自体が認めてもいるように、社会との関係を無視して語ることなど到底能わないこのバンドは、既に与えられた虚像を頑なに守る以外その存在理由など何処にもありはしない、つまり、社会との関係から切り離して漸くと見えてくる「真実」になど何の価値もあり得ないのです。もし仮に、この映画、あるいは逆光にその姿を隠した「現在」のジョン・ライドンが、二十年前に起こったあらゆるすべてを否定しているのならば、其処に如何にもパンク的に過剰な(つまり、単なるロックスター以上の)自己否定を認めることもできるのですが、しかし、決してそうではありません。シド・ヴィシャスの死に今さら涙ぐんでみせる人並みに年老いた彼は、やはり人並みに、其処にあったささやかな「誤解」を払拭することに躍起になっているに過ぎません。大抵のロックスターがそう発言するように、彼らもまた「オレ達はやりたいからやっていただけ」と、其処に垣間見えてもしまう、もはや虚像から解放された彼らの凡庸極まりないそれは、確かに「真実」の姿なのでしょう。この映画の明らかな誤謬は、それさえも十分に許容の範囲であるとしていることに、大抵のロックスターの冷笑的な「自己否定」が結局は虚像の上塗りとなるに過ぎないという当たり前な「構造」が此処でも十分に通用すると高を括っていることにあります。しかし、決してそうはならないことは、この映画が先ず何を説明したかということにも明らか、社会との関係を無視しては何一つ語れないとしておきながら、其処から切り離したものをも容認しようと、つまり、大いに矛盾しているのです。

 もう十年も前でしょうか、『シド・アンド・ナンシー』という実に莫迦げた映画を観ました。それを観た翌日にもその映画のTシャツなど着て「俄パンク」を気取っている莫迦どもが私の周りに大量発生、大いに嫌悪したものですが、今にして思えば、その軽薄さことがパンクの本質なのかも知れません。其処から上滑りする虚像を排除しても何一つ残らないことはこの映画にも明らか、パンクを語ることがその虚像を語ることに同義なら、二千円のTシャツでその仲間入りを果たしたつもりでいる人達を決して否定できたりはしないのです。

 平日の朝一番の回、観客は10人程度でした。そもそもこんな映画が一般公開の扱いを受けていることに疑問を抱いている私としてみれば、それだけの人間を集めているだけでも十分に驚くべきことでした。尤も、其処に集まった殆どが、直ぐにそれと分かる外見であったのは、しかし、どれほども驚くべきことではありません。パンクは正しくその本来が受け継がれているのです。


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