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バトル・ロワイアル
監督:深作欣二
2000年12月16日(新宿東映)

 子供は判ってくれない



 映画をどのように「読む」かなど観客それぞれに自由、その自由が許されているからこそ映画は大衆娯楽であり得ているのだとも思うのですが、しかし、この映画にある種「教育的」な、例えば「命の大切さ」とか「暴力の否定」のようなことを読む人達がいるのには何となく違和感を覚えます。確かに、そういった類の「メッセージ」を読み取り得る要素も幾つか折り込まれてはいるのかも知れませんが、しかし、そのようなものを其処に発見する人達の多くは、この映画を観た、あるいはそのつもりでいる殆どすべての人が周知であろうこの映画に纏わる「騒動」に大いに影響を受けているものと思われ、その反応の歪みは、其処にそれと丁度正反対の印象を受ける人達とどれほども違わないようにも思われてしまいます。つまり、其処に「教育的な何か」を迂闊にも発見してしまう人達と言うのは、其処に予め押されてしまった「烙印」に過剰反応し、それに対するある種の「反撥心」からそのような誤った「読み」をしてしまうのであり、あるいは「教育的な何か」を積極的に発見してやろうなどという無用な気構えでこの映画と対峙してしまう人さえいるのかも知れません。そんな莫迦げた動作が、これを予め「反=道徳的」と決め付けるのと同様に不幸であるのは、それが本来「其処に在るもの」をただ「観る」ことを拒絶しているにも等しい動作である故、彼らがこの作品について語り得る殆どが、実際には「観てもいないもの」あるいは(其処に無いにも関わらず)「観たつもりでいること」であるというのが、その体験の「貧しさ」を何よりも示しているのです。

 この映画は単に「殺し合い」をスクリーンに映した(至って良質な)エンターテイメント作品であるに過ぎません。此処に於ける「ゲームの規則」が他でもない「殺人」を要請する故に、其処に「殺し合い」が生じ、カメラが当然の義務としてそれを追い掛けているに過ぎないのです。このゲームを速やかに進行させ、物語の停滞を巧妙に回避しているのが、至って凡庸な正義感を示す主人公や、一見ゲームの支配者でもあるようにもみえる教官などではなく、安藤政信演じる非情な「志願兵」であるというのが、この映画のそんな本質を如実に示してもいます。此処に於いては、唯一彼のみが「ゲームの規則」に忠実であり続け、其処から逸脱しようとするものを片端から始末していきます。そして、そんな彼の「働き」があってこそ、「数を減らして往く」というこのゲーム即ち「物語」が成立し、然るべき結論へと導かてもいくのです。勿論、「殺し合い」は彼の関わらない場面に於いても局地的に発生しはするものの、しかし、それらはあくまでもこの「群像劇」に於ける傍流を形成しているに過ぎず、それら傍流を見事に繋ぎ合わせ、一つの「運動」として示し得ているのは、やはり「桐山」の如何にも映画的な動作なのです。彼の動作が停止して以後の些か弛緩した物語展開をみてもそれは明らか、実際、ゲームはその時点で既に終了しているのであり、それ以後スクリーンに映し出されるのはもはやゲームからは逸脱したまた別の物語、「ゲーム=物語」という映画的ダイナミズムが「桐山」の存在に依拠していたことからすれば、それも当然と言えます。

 そもそも、映画に於いて倫理規定などより余程深刻な「制度」を遣り過ごすために何が為されたかということをみても、其処に示されているものの本質が分かるような気がします。此処に於ける「制度」とは、およそ120分という、映画に於いては何故か一般的ともされている「時間」のこと、その不自由さは倫理規定の比ではないはずです。何れにせよ、その制度に忠実であるために何が排除され何が残されたのか、監督があくまでも「人数」に拘り、幾つかの「物語」と「説明」を等閑にしたのは、他でもない「量」を重視した故であり、それはこの映画が如何に多く「殺し合い」の場面を捏造するかに力点が置かれている何よりの証左とも言えます。そして、このゲームとも見事に呼応した「時間と闘い」に於いても、やはり「桐山」の存在を無視することなど到底できないわけで、彼の何の教訓をも示唆し得ない至って機械的な動作が、その「人数」を其処に詰め込むことを漸く可能にしているのです。彼がその役割を担って其処に配置された時点で、もはやこの映画はスクリーンに展開する殺人ゲームを愉しむためのエンターテイメントでしかあり得なくなっているのであり、否、それで十分なのではないでしょうか?

 物語の傍流にまで目を向ければ、確かに、其処には「教育的」な何かが示唆されているとも言えるのかも知れません。例えば、この映画の中で最も印象深い「灯台」のシークエンスなど、其処に展開する、観客の涙をすら誘う「愚かしさ」は十分に「教育的」であると言えるのでしょう。それでも、例えば『プライベート・ライアン』に於ける「ノルマンディー上陸」の場面が、その「再現性」を以て何らか「教育的」であり得るという認識がおよそ「後付」に過ぎない、つまり、スピルバーグをその試みに駆り立てたのはあくまでも映画作家としての「再現性」に対する野心であり、それによって炙り出される(のかも知れない)凡庸な抽象論などでは決してないのと同様に、此処に於ける「灯台」のシークエンスもまた、如何に凄惨(且恰好良く)其処に「殺し合い」を描くかという野心の結果でしかないはずです。勿論、そうやって差し出されたものを如何に「読む」かは観客それぞれに自由、私は何よりも老監督のいまだ衰えぬ野心を其処に発見しました。

 さらに言えば、この映画を「子供にこそ観せるべき」という発想にも些かの違和感を覚えます。他でもない「子供同士を殺し合わせること」が何らかエンターテイメントであり得るのは、それを目撃する大人達があるいは「エロティシズム」にも似た快楽を其処に発見するからこそ、大抵の子供には理解などできないはずです。従って、この映画を否定する人達が用いるべきは「悪趣味」という表現であり、決して「悪影響」などという御為倒しではないのです。

 公開初日の午後、件の「騒動」の影響もあってさすがに大混雑、劇場の周囲をぐるりと囲む行列の一部とならざるを得ませんでした。観客の殆どが十代後半から二十代前半の若者、エンドクレジットが流れても誰一人席を立とうとしなかったことから察するに、皆それなりに愉しんだということなのでしょう。『新・仁義なき戦い。』で大失敗をした東映もこれで十分に元を取るに違いありません。捨てる神あれば拾う神あり。


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