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ヤンヤン 夏の想い出
監督:楊徳昌(エドワード・ヤン)
2000年12月17日(渋谷シネパレス)

 空間の感触



 先日、ストローブ=ユイレの『シチリア!』という映画を観る機会がありました。(ハリウッド映画の類と比べると)非常にシンプルな映像が、やはり非常にシンプルに繋ぎ合わせられた映画なのですが、同時にまた非常に力強い映画でもありました。表現は難しいのですが、要は一般的な技法に拠らず、其処に貼り付けられた映像それ自体が多くの意味を予感させる映画とでも言うべきか、説明的な「モンタージュ」が既に殆どの意味を内包し、観客の思考停止を許すものだとするならば、むしろその対極にある映像群、あるがままのものから観客は何かを発見しなくてはならないのです。
 さて、ストローブ=ユイレに関してはまた機会を改めるとして、その『シチリア!』の中に少し変わった映像表現があって、それは会話の場面、例えば、AとBの二人の人物が対話するとして、Aが話しているときにはAを、同様にBが話しているときにはBをカメラが捉える、要は会話に応じて「切り返す」のが一般的で、そうでもなければAとBを同時に捉える所謂「2ショット」が用いられます。しかし、其処に於いては、カメラが一旦Aを捉えると、会話の主体が切り替わろうがお構いなしにひたすらAを捉え続け(カメラは固定されたまま)、Bはその声だけの存在になってしまいます。暫くするとおよそ恣意的に(会話のタイミングとはまるで関係なく)カメラの視点が切り替わり、今度はひたすらにBを捉え続けるという、殆どの対話の場面はそんな具合でした。この些か特異な映像表現の意味など分かりはしないのですが、しかし、改めて思ったのは、Aが言葉を発する裏にはそれを聞くBがいて、Bが言葉を発する裏にはやはりAがいるということ、莫迦げた話と思うなかれ、其処にはおよそ当たり前な技法としてある「切り返し」の「嘘」が炙り出されているともまた言えるわけで、あるいは、その技法に依拠する限りに於いては本来スクリーンから排除されてしまう存在に敢えて視線を送ることによって、些か窮屈だった「(映画的)空間」が解放され、より「自由」になるとさえ考え得るのです。尤も、そんな認識がどれほどの意味を持ち得るのかなど相変わらず分からないままなのですが、しかし、いつまでも心地良い「嘘」に騙され続けてばかりいるのが幸福なフィルム体験でもないと、何となくそんなことを思うわけです。

 此処にもやはり「切り返し」の殆ど存在しない映画が、尤も、この場合はもう少しオーソドックスな手法が用いられており、「2ショット」がそれを代用しています。そもそもこの映画はその殆どが「ロングショット&フィックス」で捉えられており、従って、対話の場面も必然的にそうなっているに過ぎません。正確には「2ショット」とさえ呼べないような場面も多く、ロングショットで捉えられた映像の中に偶々二人の人間がいる、そんなふうな映像すら多くあります。例えば、カフェの場面など、カメラは店の外にいて、通りからガラス越しに中の二人を捉えます。かと言って、会話の内容が観客の耳に届かないというわけでもなくて、むしろ「アフレコ」で強調されたものを観客は耳にすることになります。つまり、場面に応じた必要からその手法が採られているわけでは決してなく、映画それ自体がその手法に依拠し、そのまま観客に差し出されているのです。視点の所在は常に遠く、必要最低限のモンタージュしか為されていないそれはつまり、正しく「人間の視線」が再現されているのです。

 その「尤もらしい嘘」が錯覚させるのは、他でもない観客それぞれが直接スクリーンに映し出されているものを目撃しているという体験、「疑似ドキュメンタリー」がむしろカメラの存在を観客に意識させることによって「現実感」を生み出すのに対して、これはその反対、カメラの視点と観客の視点を融合し前者を抹消することによって「現実感」を其処に錯覚させます。此処に於ける「現実感」は些かの状況説明を等閑にする代わりに、モンタージュという合理的な「嘘」が予め排除してしまうものを我々に残していてくれるという意味に於いて、あるいは親切でさえあります。それは我々に「距離」を意識させ「気配」を予感させる「空間」あるいはその「拡がり」です。人間を捉えると同時に、彼らの拠って立つ「場所」を、それは時としてビルの窓や自動車のフロントガラスに反射し、都市の虚飾に取り残されてしまった人間の「孤独」をさえ浮き彫りにします。我々は此処に展開する在り来たりな家族の日常を静かに見守るべく映画館の暗闇に身を沈め、あるいは差し出された「現実感」のうちに、自身の孤独ともまた対峙するのです。

 この映画に於ける「東京」の意味は些か特異なものなのかも知れません。彼らが直ぐさま熱海へと移動してしまうのは半ば「冗談」としても、此処に於いて捉えられた東京の風景は、台北のそれが実に都会的で洗練されてもいるのに対して、むしろうらぶれた感じすらしてしまいます。彼らは人通りのない寂しい路地裏を彷徨い、あるいはホテルの窓から捉えられた東京タワーは、それだけが美しく光を抛ち、その周辺の背の低いビル群は光すら発することなく暗く佇んでいます。別に「国辱的」と感じたりもしないのですが、しかし、此処に於いては洗練された都市としての台北と明らかに対置された空間として、あるいは物語状況に呼応した意味付けが為されているとも言えるのかも知れません。単に監督の持つイメージの問題でしょうか?

 公開二日目、日曜日の午後、渋谷の単館上映は8割方埋まっていました。これが多いのか少ないのかはよく分かりませんが、『×嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』が公開された当時はいまだ「特権的」でもあったこの監督の名前が、今では(多少映画に明るい人達の間では)知らない人などいないくらいに広く認知されていることだけは確かなようです。3時間弱の長尺、勿論、寝ている人もいました。


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