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ダンサー・イン・ザ・ダーク
監督:ラース・フォン・トリアー
2000年12月23日(新宿ピカデリー2)

 あるいは「視線」としての映画



 それ自体が「視線」でもある映画は、しかし、決して他者の「視線」を捉えられないという意味に於いて「盲目」であるとさえ言えます。互いに見つめ合う二者の姿を第三者の立場として捉えることはできても、交差する視線自体を捉えることは決してできない、あくまでもカメラを見据えた視線を借りて擬似的にそれを再現し得ているに過ぎません。つまり、其処には如何にも映画的な「嘘」が、他でもない「視線」を守り抜くために何かを犠牲にするこの物語が、その「嘘」を徹底的に排除する手法によって撮られたのは決して偶然などではないでしょう。此処に於いて映画はただひたすらに「視線」であることに徹し、決してそれ以上であろうとはしません。「視線」が守られ受け継がれる物語を、同様に受け継がれてきた「視線」を以て其処に捉える、決して残酷な映画ではありません。

 そもそも映画が「視線」に徹したからと言って、其処からすべての「嘘」が排除されるわけでもないのは言うまでもないことで、例えば、ただ単にカメラが「其処に在る」ということ、そして誰しもがその存在に「気が付かない振りをしている」ということをしてみても、既に十分な「嘘」が其処にあると言わざるを得ないのです。確かに「ドキュメンタリー的」な視線を捏造することは、其処に捉えられたものを「尤もらしく」見せることに貢献しはするものの、しかし、カメラの存在が否定され続けている限りに於いて、それはあくまでも「尤もらしさ」を纏った「嘘」であるに過ぎません。それはカメラが「ドキュメンタリー的」な「節度」を守り、カメラの存在を(観客に)より意識させることが試みられた『ロゼッタ』のような映画に於いてすらそうであり、また、逆にロングショットとフィックスを多用し、むしろカメラの気配(視線)を徹底して排除しようと試みる、例えばエドワード・ヤンの映画に於いても、やはり同様と言えます。従って、此処に於いて巧妙に対置されているのは「現実」と「非現実」などではなく、正しくは「現実感」と「非現実感」とでも呼ぶべきもの、この物語のクライマックスに於いて、それらの見事な「融合」(当に映画的な「嘘」です)があり得るのも、それ故のことです。

 その「現実感」と対置されているのは、主人公の空想を借りたミュージカルの場面、其処に於ける映画的手法の転換は確かに見事なのですが、しかし、決して不満がないわけでもありません。固定された複数の「視線」が目まぐるしく切り替わるそれは十分に躍動的で、表現手段の一つとして決して否定されるようなものでもないのですが、しかし、その手法が想起させるのはあくまでもテレビCMかMTVのビデオクリップのそれであり、決してハリウッド黄金期のミュージカルではありません。ミュージカルの躍動をスクリーンに伝えていたのは、広大なスタジオを縦横無尽に移動するクレーン撮影のそれであり、此処に在るような巧妙に「切り貼り」された映像の断片などではないのです。確かに、此処に於ける主眼はあくまでも手持ちカメラでの撮影によって捏造された「現実感」との対置であり、従って、往年のミュージカルの手法を忠実に、要は「パロディー」を其処に示す必要もないとも言えるのですが、しかし、(物語状況的に)主人公の空想の礎となるのが他でもないハリウッド黄金期のミュージカル映画である以上、その再現に拘ることも必ずしも無意味ではないはずです。監督のインタビュー記事など参照すると、それが中途半端に「教義」に拘った結果だと分かるのですが、しかし、そもそもの「教義」自体どれほども有意だと思えない私にしてみれば、やはり些かの疑問を感じざるを得ません。「100台以上のデジタルビデオを駆使した」と言われても、「それがどうした」としか応えようがないのです。

 此処に差し出された「現実感」と「非現実感」が、しかし、何れも「同化の装置」であるのは、映画館の其処彼処から聞こえてきた嗚咽にも明らかなことです。「ドキュメンタリー的」な視線はその客観性をして「異化の装置」であることが多いのですが、この場合は、その徹底によってむしろ逆の効果を、力強く「引き込む」べく作用しています。しかし、それらが最後まで「同化の装置」であり続けたかのと言えば、実はそうではなく、それらが如何にも映画的な「融合」を果たす段に於いて、唐突に「異化の装置」へと切り替わっているのです。状況は「頭巾を拒絶する」というあからさまな「演出」が為されるあたりから俄に変化の兆しをみせ始め、文字通り「幕が引かれる」ラストに向かって加速度を増して往きます。刮目すべきは、「視線が守られた」という事実の確認をその契機としていること、それはやはり一つの「視線」であり続けてきた映画がその義務から解放される十分な理由でもあるのです。
 此処に於いて実現されているのは、物語的結論がもたらす閉塞状況を幾分緩和する言わば「映画的配慮」のようなもの、重苦しい「現実感」からの解放が企図されているとも言えるのかも知れません。つまり、これが仮に「救いのない物語」ものだとしても、映画はその本質、即ちそれが「虚構」に過ぎないという事実を我々の前に晒け出すことによって巧妙なパラドクスを仕掛けているのです。そもそも「視線」は受け継がれています。その至って幸福な結論をして映画が既に「現実感」を抛棄している以上、今さら何を深刻に思い悩む必要もないのです。

 公開初日、土曜日の午後、しかし、この映画の混雑ぶりには正直驚かされました。公開規模に違いがありますから、正確な比較はできないのですが、その混雑ぶりは間違いなく『バトル・ロワイアル』以上、立見も50人以上はいたのではないでしょうか。始まって30分ぐらいで退席する人が散見されたのは予想の通り、普段テレビしか観ない、精々観てハリウッド式娯楽映画という人がこの映画の手法に違和感を覚えるのは致し方のないところです。何の間違いか、これだけの観客を集めているのですから、そういう人達が多く混じっていても少しも不思議ではありません。ラスト近くになって其処彼処から嗚咽が漏れてきたのは既述の通り、その嗚咽の主が普段どんな映画を観ているのかは大いに関心のあるところで、ミュージカルの場面を除けばおよそ「ドグマ95」に準拠した「反=ハリウッド的」なこの映画が持ち得たある種の「大衆性」の正体が其処に隠されているようにも思われます。あるいは映画に於ける「大衆性」の一般的な定義それ自体に誤謬があるのかも、奢れるハリウッドは久しからず、映画を取り巻く環境にはまだまだ底知れぬ可能性が秘められているのかも知れません。


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