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ジュリアン
監督:ハーモニー・コリン
2001年1月6日(シネマライズ2)

 新しい嘘



 そもそも「即興演出」という言葉が大いに矛盾しているのは、本来「即興」と「演出」は相反する表現手法である故、映画に於いて実現されるのは、しかし、あくまでも「即興演出」であるに過ぎません。確かに、一切の「演出」を排して一発勝負の「自然な」演技を其処に貼り付ければ、それが「即興」ということにもなるのかも知れませんが、しかし結果としてそれが唯一つの(観客の目に触れる)演技となってしまうことは、幾重にも演出を重ねた演技とて同じこと、比較的質の高い観客が彼らの経験によってそれらを区別することができるにせよ、前者はあくまでも「即興的」とされるに過ぎないのです。それは例えばジャズを聴く場合、それが即興演奏によってレコーディングされたものであったとしても、レコードから流れてくるものに「即興」の醍醐味を感じたりはしないのと同じこと、「二度と同じことはできない」はずのものを何度でも体験できるのですから、それも当然のことなのです。その意味に於いて、舞台演劇に於いては「即興」も十分にあり得るわけで、映画に於ける「即興演出」のパイオニアとも言えるジョン・カサヴェテスが、劇中劇の設定を借りて同じ場面に於ける複数回の即興演技をスクリーンに示しても見せたのは、「即興演出」の矛盾あるいは限界を誰よりも了解していたからに違いありません。映画という反復運動は、撮影現場では確かに「即興」であったはずのものを、しかし、それを観客に差し出す段に於いては一切無効に、「即興的」あるいは「即興演出」という他でもない「演出」の一手段として漸く示し得るに止まるのです。

 ラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に於けるミュージカルの場面が、100台ものデジタルビデオを同時に回し、それら(100通りの角度から撮られた100本のビデオ)を編集した結果であるというのは既に知られた話です。そのような撮影方法が選択された理由は幾つかあるようなのですが、基本的には、これもある意味「即興的」な演出を企図してのこと、要は「通し」の一発勝負が「ライブ感」を生むという理屈です。勿論、それはそれで悪くないと思うのですが、最終的に観客の前に差し出された映像に「即興的」な何かがあったかと言えば、どうしても否定的にならざるを得ません。其処に在ったのは「即興」とはむしろ正反対の、ブツブツと「切り貼り」された至って「人工的」な映像なのですからそれも当然のこと、本来「即興」で貼り付けられたはずの演技の100分の1を我々は目撃したに過ぎないのです。人工的なスタジオ撮影を嫌い、自然の中で撮影されたはずのものが、しかし、最終的には「編集室」という映画的人為の最たる場所から差し出されているに過ぎないという矛盾は、映画に何かを取り戻そうとする一連の「運動」をすら容易に否定し得てしまうような気がします。パンフレットの何処かに書かれていたのですが、『ジュリアン』の編集前のビデオは86時間分もあったとか、過剰な「演出」が排除されているとは言っても、我々の前に差し出されるのはあくまでも100通りの「即興」から慎重に選別され、巧妙に繋ぎ合わされたものに過ぎないこともまた事実で、それは即ち、「即興」を装った極めて狡猾な「人為」に他ならないと言わざるを得ないのです。勿論、そのこと自体を否定するつもりは毛頭ありません。映画に「現実感」を伴わせる方法論が様々に模索されるのは当然のことで、「即興」を装うのもまた一つ、しかし、肝要なのはそれとて所詮は映画的な「演出」の一つであるに過ぎないということであり、決して何らか特別な立場から「映画」を提示しているわけでもないということ、つまり、タイトルスクリーンに下品な「認定証」など映してもらう必要は何処にもないということです。

 これは見るからに映画的人為、あの粒子の粗い特徴的な映像のことです。ビデオ映像を8ミリに落とした上でさらにブローアップ、確信犯的に「ノイズ」を発生させているのは言うまでもないことです。よもや『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』でもないのですから、その粒子の粗さをして身近な映像機器を想起させるとの理由から「現実的」などと発想する人などいないとは思うのですが、しかし、この映像をして「現実的」と評する人がいるのは紛れもない事実です。差し当たってこれは「前衛」か精々「印象派」の映像、もし仮にそんな類の映像が何らか「現実的」であり得るのならば、余程多くの人がその「印象」のフィルターを予め共有しているということ、残念ながら、そんな文化的人類とは何一つの共有もあり得ない私としては、些か目の疲れる「汚らしい」映像を其処に発見したに過ぎませんでした。勿論、観ているうちに段々と慣れてもきますから、実際にはそんな嫌味を言うほど酷い体験をしたわけでもなかったのですが、それでも、其処に発見し得たのは「現実」よりもむしろ「幻想」、誰かにとってあり得ても何ら不思議ではない「現実解釈」の一つです。念のため繰り返しておけば、此処で為されているのは「良し悪し」の話ではなく、あくまでも「現実的か否か」の話です。

 総じて、この映画、あるいは「ドグマ95」に準拠した映画が「現実主義」の場面に於いて何らか特権的であるなど到底認め難いと、否、この場を借りてそんな話を無駄に繰り返しているに過ぎません。驚くべきことが何もなかったのではなく、私は其処に「新しい嘘」を発見したと、しかし、それだけの話です。

 公開から少し時間が経った土曜日の午後、此処に於いては何の間違いも起こらず、当然のように劇場はガラガラ、それはそれで「正しい」あり方なのでしょう。此処に大手の配給とフジテレビの大々的な宣伝が加われば、あるいは「ジュリアン、カワイソー」とか言う正月娯楽映画が出来上がるのかどうかは、分かりません。それはともかく、スクリーンは今どきアカデミーサイズ、ビデオから起こしたのですから当然なのかも知れません。パンフレットを参照すると、監督のハーモニー・コリンは18歳から21歳までの間に5千本の映画を観たとか。1日あたりおよそ3本、年齢は私より若いくらいですから、おそらくその半分はビデオによるものでしょう。特に驚くでもないのは、私もそのくらいのペースで映画を観ていた時期があった故、さすがに4年間それを続けることはできませんでしたが、暇を持て余している今どきの「映画好き」の学生にとっては然して困難な動作でもないはず、否、むしろそのくらいは観ていないと…。


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