Index

 
愛のコリーダ 2000
監督:大島渚
2001年1月13日(シネ・アミューズ)

 肉体の愛に出口なし



 この映画が「芸術」かどうかなど私には分かりませんし、また、そんなことには然して興味も惹かれません。そもそもの倫理基準が滑稽ならば、それが「芸術」なら多少の逸脱も許容されるという理屈もまた滑稽、間違いなく言えることがあるとするならば、その特権的な何らかこそが「芸術」と呼ばれるものであるならば、この映画の何処を探してもそんなものが見つかったりはしないということ、此処に在るのは、我々にとって至極見慣れた肉体の一部分と、それを巡る一つの物語であるに過ぎません。ある種の基準がそれを隠すことを要請し、その基準に反するものを「猥雑」と判定するならば、この映画は間違いなく「猥雑」な何かで、それを否定することなど到底できないはずです。肝要なのは、此処に於いて、その「隠すべき」が、この映画の意味の殆どを担っており、従って、それを隠してしまったのでは、その本質が歪んでしまうということ、この映画に対して為された動作が如何にも犯罪的なのは、それがこの映画の(あるいは猥雑極まりない)「運動」の断絶を余儀なくするものだからであり、在るかどうかも分からない「芸術性」を否定するものだからでは決してないということです。

 此処に在るのは俗に言う「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語に過ぎません。しかし、それが些か特異でもあるのは、その視点がおよそ「性器」にのみ向けられている故、既に誰しもが知っている有名な「物語的結論」から遡行すれば、それも必然と言えるのかも知れません。唐突にも見える男女の出会いは案外丁寧に順序立てられてもおり、それこそがこの物語を「ボーイ・ミーツ・ガール」とする所以、先ずは性器を「見る」ことから始まって(殿山泰司のそれも含めて)、「触る」、「舐める」、「飲む」、「入れる」と然るべき段階を経て漸く「祝言(の真似事)」に至るという、つまり、性器との距離が少しずつ縮まって往く過程こそが、この男女に於ける出会いの物語なのであり、その過程があればこそ、他でもない「性器の所有」という物語的結論が正当性を得るのです。その意味に於いて、(この物語が、誰しもがその結論を予め了解している有名な「事件」に基づくものであることを割り引いても)此処に差し出される結論はどれほどの意外性をも伴っておらず、何故なら、此処に於ける関係は終始一貫して性器のそれでしかなく、その持続を何らかの「所有」に求めるのならば、それ以外には、スクリーンの何処を探しても何一つも見つからないからです。この映画に於ける「修正」が如何にも犯罪的なのは、それが、この物語の持続を約束する、此処にあるべき唯一のものを隠蔽する動作にも等しい故、此処から「性器」を排除してしまうと、実は何も残らなくなってしまうのです。

 映画が一時「性器」から視線を逸らすのは、実際、物語の中で女がその矛盾を自覚しているように、映画もやはり、「性器」に執着するばかりでは何一つの結論にも到達し得ないということを自覚する故、スクリーンが「性器」を脇に追いやり「頚」をその中央に差し出すのはそんなときです。女、あるいは映画は、男の頚を一時的な「代用物」とすることによって、其処に在る如何ともし難い矛盾を事もなげに遣り過ごしてしまうのです。セルジュ・ゲンズブールの有名な詩の一節に「肉体の愛に出口なし」とあるのですが、此処に於いては、差し出された男の頚に本来ないはずの「出口」を見出したとも、「性器の所有」という此処に於いては予め約束されているはずの動作が、あるいは「異常」にも見えてしまうのは、それがその「気紛れ」に端を発するものであるからに他なりません。

 さて、私には「フィルムは縦に切るもの」という認識しかなかったのですが、此処に於いては、しかし、それを「横に切る」という動作が為されていたようです。この映画の話ではなく、もはやこの映画とはまるで「別物」であるとさえ言い切れる嘗ての「日本公開版」の話です。スクリーン中央に「性器」を置いた(この映画に於いては当然のこと)騎乗位による性交の場面、執拗なフィックスで捉えられるそれは、此処に於ける関係の「頂点」を示唆するという意味に於いて非常に重要な役割を果たすのですが、しかし、あろうことか、嘗てのそれに於いては「横から鋏を入れる」という蛮行を以て、その美しい(敢えて)場面を無惨な姿に変えているのです。それもやはり「性器」を隠蔽するため、「ぼかし」を入れるだけでは足りないと考えたのでしょうか、フィルムを横に3分割した中央部分のみを排除し上下に残った部分を繋ぎ合わせるという浅知恵を、捏造された「マルチスクリーン」で喘ぐ男女の姿は、ただひたすらに滑稽でしかありません。二人を繋ぐものが「精神」でもあるいは「肉体」ですらなく、もはや「肉体」からも遊離したかに見える二個の「性器」でしかないという特異な現実を示すには、やはりそれ自体を其処に捉えるより他になく、つまり、観客に「想像の余地」など不要、何故なら、我々の貧困な想像力は、其処に相応しからざる「不純物」(例えば「愛」とか)を紛れ込ませてしまうからです。もしそれが「愛」ならば、「性器の所有」という結論になど到底至らないのです。

 公開終了も間近い土曜日の午後、狭い劇場の半分も埋まっていませんでしたが、「イースト」と「ウエスト」の両方で同時上映されていることからすれば、いまだそれなりの客を集めているとも言えるのかも知れません。カップルは意外と少なく、男性一人、もしくは女性の二人組というのが殆どでした。ところで、客席の一角に「レディス・シート」というのが設けられていたのですが、この意味が今一つよく分かりません。映画の内容が内容なだけに、横に男性がいると「身の危険」を感じてしまう女性もいるということなのでしょうか? 上映前、チラホラと埋まっていたその一角を眺めた限りに於いては、「勘弁して下さいヨ」て感じでしたが。
 尚、私はこの映画の(ズタズタにカットされた)旧版を10年くらい前に観ているのですが、それが如何に酷いものであったのかを、この「カット」だけはされていないらしい新たな版を観て再認識しました。あれは酷い。


Index