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シャンヌのパリ、そしてアメリカ
監督:ジェイムズ・アイヴォリー
2001年1月14日(有楽町スバル座)

 不器用な告白



 ある程度の事実に基づいた、例えば「伝記物」の類をスクリーンに再現する場合、その舞台となっているある特定の時代を観客に示すための有効な手段の一つに「音楽」があります。特に、今どき映画の舞台となることの多い60年代から70年代にかけての(欧米の)若者文化を其処に示す場合など、当時のロック音楽はもはや必要不可欠とさえ言えるのかも知れません。クラシック演奏家を扱った『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』に於いてさえ其処に「キンクス」の名前を、そんな映画は枚挙に遑がありません。それは音楽、特に「流行歌」の類が何よりも時代に溶け込み、その雰囲気を容易に喚起し得るものである故、60年代や70年代にどれほども関わっていない私でさえ、例えば、其処にドアーズの音楽が流れていれば、ある特定の雰囲気を容易に察し得るのです。ただ、容易である反面、下手な使い方をすれば実に「安易」な印象も、ジェイムズ・アイヴォリー監督によるこの映画などその最たるものと言えるのかも知れません。そんな印象を受けてしまう一番の理由は、其処で選曲されたものの趣味の悪さという、およそ私個人の嗜好に関わる問題にもなってしまうのかも知れないのですが、しかし、何れもが其処に映像とは些か乖離した「強引さ」を感じざるを得ず、あるいは「サービス」のつもりなのか、出演者の一人に名前を連ねるジェーン・バーキンの曲(しかも発表年度が映画の時代設定とは幾分ずれています)が流れるのなど、質の悪い冗談のようにさえ思われてしまいます。

 この物語を「時間」の推移と「空間」の移動で論じるならば、「時間」の推移が表徴されるのは、子供二人の成長に伴う視覚的な変化と件の音楽、前者は子役との「ダブルキャスト」ですから何を指摘するまでもないのですが、後者に関しては、既述のことも含めて実際のところ随分といい加減で、少なくとも微妙な時間的推移を表徴するに到底至らないものです。尤も、もう少し大雑把な括りで捉えるならば、例えば、ジャズやアフロキューバンが一つの(遠い)時代を見事に表徴し得ているように、至って有効な手段でそれらの引用が為されてもいるのですが、しかし、此処での音楽は専ら「少女の成長」に、それを促す時間(を表徴するもの)がチグハグでは、物語自体もやはり同様の印象をしか与え得ません。
 また、この映画に与えられた邦題は、これが恰も「空間」の移動に関する物語であるかのやうな印象を与えてしまうのですが、しかし、此処に於いてパリとアメリカという二つの舞台が用意されていることには実際どれほどの意味があるわけでもなく、確かに、アメリカへの移動に伴って、その環境の変化に戸惑う姉弟の物語が示されはするものの、それはあくまでも結果としての物語であり、本来重要であるはずの「空間」の移動を要請する何らかが多く語られることありません。実際、その「決定」は実にあっさりと、それ自体が物語を生み出す余地など何処にもなく、まるで予め決まっていたかのような速やかさでその移動は実現され、物語はあくまでもそれに追随しているに過ぎないのです。

 此処に於いては「時間」の推移あるいは「空間」の移動とは別に、少女と3人の他者との関係が物語を分けている、それが物語構成の主でもあるのですが、これを単なる「少女の成長」を捉えた物語とみるならば、確かに、其処にそれなりの意味を発見し得るとは言え、しかし、それはあくまでもこの映画のある一面を示しているに過ぎません。その「変化」にのみ依拠してこの映画を捉えても、実は非常に退屈なだけ、時間の推移や空間の移動がもたらす変化がそうであるように至って単調で、何らか「映画的運動」を約束するものでもないのです。

 さて、この映画に於いて、実は最も重要な装置である「テレビ」は大きく分けて二つの機能を果たしています。一つは、アメリカに移動した後の少年が些か「引き籠もり」気味に囓り付くそれ、時代(時間)あるいは舞台(空間)の表層文化を其処に示すという意味に於いては、少女の「時間」あるいは「空間」に大きく関わる「音楽」と殆ど同じものとも言えます。そして、もう一つは、彼らの父親がテレビ映画を観るそれ、其処に映されるのジョン・フォード監督の『駅馬車』とマイケル・チミノ監督の『サンダーボルト』、前者は60年代のパリで、後者は70年代のアメリカで、前者のそれが「時間」と「空間」の両方を見事に裏切っているのは、決して偶然などではないはずです。つまり時間や空間の変化に注目しても其処に単調さをしか発見し得ないこの映画に於いて、真に論じられるべきはその「変化」と対峙するものに他ならず、つまり、これは(監督が想い描く)「普遍的」なアメリカ人像とその家族の物語であると、あらゆる変化が単調にも見えてしまうのも道理、此処に在るのは終始一貫して「変わらない」何ものかであり、その何ものかに投げ掛けられた些かノスタルジックな視線に他ならないのです。この監督にしては意外とさえ思えるコントラストの淡い映像、付け焼き刃的な印象をすら受けてしまうチグハグに引用された音楽、然して重要とも思えない(意図された)物語構成、そんな悲壮感さえ漂う不出来な表層に隠されているのは、ともすればイギリス人に間違えられてもしまうこの監督の、些か不器用なナショナリティーの告白であり、其処に秘められた資質の発現なのです。此処に於ける『サンダーボルト』の引用は、実は物語設定的にかなりの無理があるのですが、しかし、この際そんなことには目を瞑って、それを引用せざるを得なかったこの監督の不器用な態度表明を率直に受け容れてみるのも、また「幸福なフィルム体験」の一つではないでしょうか。

 公開終了も間近い日曜日の午後、かなり悲惨な状況を予想していたのですが、案に相違して半分くらいは席が埋まっていました。公開された当初、新宿の「シネマ・カリテ」で観るつもりをしていたのですが、新宿での上映が何故か瞬く間に終わってしまったこともあって終了間際になって漸く、如何せんこの寒さ、有楽町まで足を伸ばすのを億劫がっていたというのが正直なところです。
 個人的には「ル・シネマ」とかそういうのよりも、この「スバル座」とか「テアトル」あるいは「ピカデリー」のような、如何にも映画館らしい、津々浦々で見掛けるような名称が好きですね。その名称からも連想される通りこの劇場は非常に伝統があって、ロビーには嘗て上映された名作のスチール写真の数々が誇らしげに並べられてもいます。映画館が嘗ての輝きを取り戻すのは、もはや不可能なのかも知れません。


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