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EUREKA(ユリイカ)
監督:青山真治
2001年1月20日(テアトル新宿)

 失われし時を求めて



 漸く一般公開に漕ぎ着けたこの映画が、それでも、その映画としての価値とは裏腹にどれほども恵まれた環境を与えられていない原因の一つは、やはりその異例の上映時間にあるものと思われます。この映画の一般入場料金は2500円、これが高いかどうかは別として、その料金をして映画の価格がそのフィルムの長さに比例していると発想する人は愛すべきロマンチスト、実際には、1日に可能な上映回数から割算されているに過ぎないというのが正確なところでしょう。映画に何らか絶対的な価値があるかどうかなど分からないにしても、しかし、それを一つの「商品」としてみた場合、其処に明確な数字としてその価値が顕れるのはもはや周知の事実、映画に纏わる様々な「制度」が、その「商品」としての価値基準から遡行され得るものだとするならば、幾つかの点に於いて、明らかにその「制度」を裏切るこの映画が「商品」として冷遇されてしまうのも、やはり致し方のないことなのかも知れません。私が此処に文字を連ねるいつもの動作が、ある一面に於いて既に十分な価値を有しているこの映画に、もう一つ、その通俗極まりない価値をも付与する手助けにでもなれば、と。

 此処とは別の場所で、この映画をして「理論家の映像」としたところ、要らぬ誤解を与えてしまったよう、その表現から連想されるような難解な映画では決してありません。私が言うそれは、例えば、この映画の冒頭に子供二人がバス停でバスを待つ場面に於いて、先ずバス停にカメラを置いて、バスが近づいて来るカット、バスに乗り込むカット、バスが遠ざかるカット、走っているバスを(移動車から)正面に捉えるカット、そして(カメラがバスの中に入り込んで)車内のカットと、そんなふうに続くのですが、観ていて何となく違和感を覚えるのは3番目の「バスが遠ざかるカット」で、つまり、それが挟まれていることをして「理論家の映像」と、あくまでも私の印象の問題に過ぎません。其処で違和感が生じる原因は、そのカットが状況説明としてはまるで必要のないカットである故、子供二人がバスに乗り込んで、場面は車内に移るわけですから、バスに乗り込むカットに続くべきは、本来、バスを正面から捉えたカットか車内のカットのはず、従って、既に無人となったバス停からそれを「見送る」というのは、当然ながら「状況説明」以上の意味が付与されているわけで(その意味は誰にでも理解できます)、そんなふうなカットが多い一方、単なる「状況説明」は案外省略している部分も多く(決して何かを分かり難くしているわけではありません)、そんな動作(編集)に及ぶ人を私は「理論家」と、その言葉が適当なのかどうかは分かりません。尤も、そんな些細なことを気にしなければ、むしろオーソドックスな(画面が特殊な黒白である以外)映像、何一つの難解さも其処にはなく、予め身構える必要もありません。
 話の序でに、もう一つ別のシークエンスにも言及すれば、物語の後半、カメラが唐突に海の側から陸を捉えるカットに切り替わる(つまりカメラマンが腰まで水に浸かりながら撮っていることになります)場面があるのですが、観客の予想を裏切るという意味に於いては、そのカットもまた印象的、その数秒後の被写体の動作が、その唐突なカットの整合性を証明するのなど、私に言わせれば、やはり「理論家」のそれです。

 さて、此処にあるのは、何かをひたすらに、辛抱強く待ち続ける映画です。この映画が語られるとき、誰しもが先ず口にするのであろうその4時間近くにも及ぶ「時間」は、そうやって何かをひたすらに待ち続けた結果であり、必然というよりもむしろ偶然、それが訪れなければ、我々はさらなる「時間」を其処で体験しなくてはならかったのかも知れません。もし待つべきが単に「物語的結論」に過ぎないのならば、大抵の観客が退屈しないのであろう程度の「時間」を以て、その出現を促せばそれで事足りる話、むしろ映画とはそういうものです。しかし、此処に於いては、恰も偶然それが訪れるのを、他でもない映画それ自身が辛抱強く待ち続けているかのように、映画的制度とはまるで無縁の「時間」を我々に体験させるのです。物語が後半に差し掛かると、観客はあらゆる「物語的結論」から裏切られることになります。物語的結論、即ち、その運動の停止を予感させる装置は至るところに、通り魔事件の結論、沢井の空咳、目的地としての海等々、我々が既に体験した「時間」も相俟って、それらは我々に何かを期待させもするのですが、しかし、あくまでも「物語的結論」に過ぎないそれらは、この映画が本来「待つべき」ものではないという当然の理由から、その運動を停止させるには到底及ばないのです。

 この映画が待ち続けるのなど、実に在り来たりなものであるに過ぎません。映画的理解に些か乏しい人なら、あるいは其処に如何にも映画的な楽観主義を発見してしまうのかも知れません。しかし、この映画に於けるそれが、単なる「物語的結論」では決してないことを以て、そんな楽観主義を遙かに遠ざけているのは言うまでもないことであり、そもそも其処に費やされた「時間」は、それが「映画的」であることさえ既に否定しているのです。そして、映画が「待つべき」と遭遇し得た瞬間に果たされる一つの「転換」は、例えば、コッポラやベルトリッチのそれと比べて、やはり至って在り来たりな、その「待つべき」がそうであったように、「理論家」のそれにしては、あるいは「気恥ずかしさ」をすら覚えてしまうほどにも愚直な態度と言えます。しかし、それは正しく映画が何かを「発見」した瞬間であり、映画が物語に拠ってではなく、それ自身の意志に拠って静かに運動を停止させるその予感なのです。「待つべき」の訪れと時を同じくして「映画」が場面を立ち去るそれは、余りにも美しく、また、優しくもあります。

 公開初日、土曜日の午後、1日に3度しか上映されない2回目を観ました。1回目と2回目の上映前に舞台挨拶が設定されていたこともあって、両回とも定員一杯の入場、さらに、どうやら出演女優の一人を目当てにしていた過ぎなかったらしい「プレス」どもも押し掛けて、映画館は稀にみる混雑でした。尤も、午後7時過ぎに始まって、午後11時近くに終了する3回目はどれほども混んでいなかった様子、翌日以降の入り具合が何となく気になるところです。舞台挨拶は監督始め出演者多数、舞台挨拶などこれまでに1度しか観たことがありませんから、それが本来何が語られるべき場面なのかはよく知らないのですが、舞台上の複数が「是非、この映画の良さを周りの人に伝えて下さい」と深く頭を下げていたのが非常に印象的でした。そのような次第ですから、これを御覧になった方で東京都近郊在住の方は、私のこれが「この映画の良さ」をどれほど伝え得ているとも言えないのですが、テアトル新宿まで足を運んでみては如何でしょう、是非。


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