Index

 
BROTHER
監督:北野武
2001年1月27日(新宿ジョイシネマ2)

 円心を貫く一本の直線



 さて、如何に褒めちぎってやろうかと、実は、この映画を観る前からそんなことばかり考えていたのですが、実際観てみると案外筆が進まないもので、それは勿論、そうするに値しない映画だったからということではなくて、何を書くにせよ、其処彼処で余りにも多く語られ過ぎている月並みな「北野武論」に落ち着いてしまいそうである故、この映画に対する否定的な言辞として用意されている「新鮮味がない」というそれも、実は、そんなに的外れなものではありません。しかし、それはまるで「セルフ・パロディー」であるかのような幾つかの場面に象徴的な「スタイル」の問題に過ぎず、その「見慣れた何か」が再構築され一つの「映画」として我々の前に差し出されたとき、それが纏う様相は、もはや「見慣れた何か」などでは決してなく、例えば、この映画が論じられる場面に於いて必ずと言って良いくらい引き合いに出されてしまう『ソナチネ』をもある意味では超越した作品であるとさえ、それが「死」によってその「運動」を見事に停止し、其処に一つの完結した(閉じた)「世界」を構築し得たとするならば、此処に在るそれは「死」を以てすら完結し得ない果てしない「運動」の断片、『ソナチネ』が一つの「円」なら、この映画はその円心を貫く一本の「直線」なのです。

 此処には「暴力」などそもそも存在していません。ヤクザ映画をして「暴力不在」となど、別に奇を衒っているわけでもなくて、否、むしろヤクザ映画であるからこそ、其処にその不在が明らかなのです。この監督の、一般に「暴力的」とされる何本かの映画は、大抵がヤクザか刑事が主人公なのですが、そんな職業が好んで選ばれるのは、其処に於いては暴力がむしろ日常的で、その行使にどれほどの違和感も伴わない故、実際、スクリーン上の殆どの人物は何の躊躇もなく暴力を行使しますし、「話し合いの余地」になど端から興味がないように振る舞います。例えば『バトル・ロワイアル』のそれが紛れもない「暴力」であるのは、本来、余程特殊な状況でもなければ、その行使に何らの必然性の伴わない普通の中学生がマシンガンをブッ抛すからであり、其処にはそれ相応の意味もまた伴うのですが、しかし、ヤクザや刑事の場合は、そもそもが「そういうもの」に過ぎませんから、それを行使する度に一々意味が伴ったりはせず、それ自体が「目的化」することもまたあり得ないのです。もし、監督が本当に暴力を其処に描きたいのであれば、もう少し普通の人間、野暮たいネクタイを頚に巻いたサラリーマンにでも拳銃を握らせた方が余程効果的なはず、其処に得るものこそが「暴力」であり、それ自体が何らかの意味を担い得るのです。私の言う「暴力不在」とはつまりそういうこと、此処に於ける「暴力」は、それ自体が決して目的化することのない完璧な「装置」なのであり、そして、そのあくまでも「装置」に過ぎないものとの親和性をある種「現実主義的」に模索すれば、其処に必然として「ヤクザ」という職業が選択される、それだけの話なのです。

 この映画の其処彼処に鏤められたその装置は如何に機能しているのか、およそ突発的にして完璧な機能を果たすその装置が「死」に直結しているのなど今さら言うまでもないことで、従って、此処に描かれているのは「暴力」ではなく、その結果としての「死」であると、しかし、そんな話は余りにも退屈です。『バトル・ロワイアル』に於いては、「数を減らす」という、「ゲームの規則」(即ち物語)でありまた同時に映画自体を動作させる「運動」でもあるそれが、専ら「桐山」の存在に依拠していたと言えるのですが、彼に於ける暴力がやはり一つの「装置」に過ぎなかったことをしてみれば、此処に於けるそれにも容易に理解が及ぶはず、つまり、此処に於いても、やはり「数を減らす」ということが、その装置の果たすべき機能なのです。但し、此処に於いては、ただ単に数が減っていくのではなく、逆にそれが増えることも、この物語を大局的に見れば、一人を捉えたカットから始まって、その「数」が最大となったところで一つの頂点を迎え、やはり一人を捉えたラストカットに向かって、そうなるべく「数」が減らされて往くのです。数を減らすのが暴力なら、それを増やすのがそれとは正反対の「装置」であるとするのは、しかし余りにも短絡的な発想、後述するそれは、むしろ「数」に還元され得ないという意味に於いて、真にその「対極」であり得るのです。此処に於いて数を増やすべく機能するのもやはり暴力に他ならず、それを象徴する極端な存在が「白瀬」であるのは言うまでもないことで、また、此処に於ける「自死」という他でもない暴力の特殊な一形態が、数を減らすと同時にまた増やしもするという些か特異な効果を発揮するのなど、その機能を示唆する典型と言えるのかも知れません。

 幾つかの旧作、例えば『ソナチネ』を持ち出すまでもなく、この監督が描くそれに於いて「暴力」と対置されるべきが他愛もない「遊技」であるのなど既に知られた話で、此処に於いてもまた例外ではありません。そして、捏造された「言葉の壁」によって、旧作にも増して過剰となった「沈黙」が本来寄せ付けないはずの「対話」を、その「遊技」が当たり前のように代行しているのも、やはり、旧作同様と言えます。それは他愛もない「賽子遊び」に始まる主人公と黒人青年のそれに限らず、また別の関係に於ける「バスケットボール」などもそう、そうした「遊技」を介した関係が「言葉の壁」を忽ち無効にするのなど、どれほども難しい話ではありません。但し、それが大抵の場合「対話」を深めるものとして機能しているとは言え、しかし、此処に於ける「遊技」が単なる「装置」ではなく、何かしらの意味を伴った、時としてそれ自体が「目的」でもあり得る何らかであるのは、「暴力」のそれに際して示した理屈を丁度裏返しにすれば、誰しもが容易に理解が及ぶはずです。
 単純に考えれば、「数」を増やすべく機能するはずの「遊技=対話」が、此処に於いては、しかし、必ずしもそんなふうに機能するわけでもないのは既述の通り、それは、この映画が「一人に始まって一人に終わる」ことと決して無関係ではありません。そのそれぞれの場面に在る彼ら二人は、この物語に於いて誰よりも見事に「対話」を成立させていたにも関わらず、しかし「暴力」がそうであったように「1+1=2」というような単純さを其処に示すことはなく、実際、其処に在るのは「1+1=1」(敢えて数値化するならば)というそれ、此処に於いて「対話」が果たし得る機能は、決して「数」に還元されたりはしないのです。

 この映画に於いて、ヤクザの伝統的な儀式が殊更に強調されるのは、勿論、言われているように「外国人向けのサービス」である面も否定はできませんが、しかし、決してそのためだけではありません。「対話」が本来「伝達」をその主たる機能としていることに思い当たるならば、此処に在るものの正体が漸く見えてくるはずです。世の中にはこの映画のラストカットをして「余計」と断じて憚らない「映画を観る才に足りない人」も少なくはないようなのですが、そのような手合は、其処にファーストカットから象徴的に受け継がれている「物」があることを、あるいは、まるで理解していないのかも知れません。此処に在るのは、あらゆる伝統がそうであるように、何かが途絶えることなく「伝達」されていく過程であり、そして、それを取り巻くあらゆる過剰(「数」に還元される暴力、あるいは人種の差異がもたらす「壁」等々)は、「遊技」の連鎖によってこの映画に貫かれている一本の揺るぎない「線」に幾らかの装飾を施し(つまり「物語」を提供する)、結果としてそれを際立たせることに貢献しているに過ぎません。その構造が教えるのは、此処に於いては、むしろ「暴力」こそが「遊技的」であり、延いては「死」ですら、決してそれ以上ではあり得ないということです。其処に貫かれた揺るぎのない一本の「直線」と個々の「生き死に」など所詮は「遊技」に過ぎないと、そう断じてしまう巨視的な視線こそが、この映画なのです。

 公開初日の午後、御存知の通り、東京方面は今年一番の大雪という初日としては最悪のコンディションでした。それでも、立見が出るとまではいきませんでしたが、劇場は殆ど満席に近い状況、帰り際に擦れ違った次回を待つ人の列も、横殴りの雪が降りつける劇場の外まで伸びていました。また、(新宿歌舞伎町エリアは)私が観た初日こそ「ジョイシネマ2」でしたが、翌日曜日からは其処より100席ほど多い「ジョイシネマ1」に格上げ、私が「偵察」した限りに於いては、何れの回も立見が出る盛況ぶりでした。一人というより、むしろ複数名のグループが目立った男性客が殆どだったのは、この映画というより、この監督のファン層がそのまま顕れた結果と言えるのかも知れません。さて、興行的な成功とはいまだ無縁の北野監督が、この好調を維持し、漸くと成功を収めるに至るのでしょうか?


Index