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はなればなれに
監督:ジャン=リュック・ゴダール
2001年2月4日(銀座テアトルシネマ)

 遅れてきた観客のために



 映画的な何かを寄せ集めれば、それが「映画」である、私の考えです。何を以て「映画的」とするかは「人それぞれ」と譲歩するにせよ、その「寄せ集め」が何一つの物語をも其処に内包していなくても、あるいは、どれほども上手に何かを説明していなくても、それが「映画」であることに変わりはなく、また、それを理由に何らか価値を下げるものでもないと思っています。此処に在るゴダールの旧作も、やはり映画的な何かを寄せ集めたに過ぎない映画、セリ・ノワールにわざわざ原作を借りているにも関わらず、しかし、説話行為など殆ど等閑に、彼は只管に「映画的な何か」を貼り付けることに腐心し、見事貼り付けられたそれを何に憚ることなく我々の前に差し出します。繰り返すようですが、それが「映画」です。あるいは、「ゴダール」という既に映画的な固有名詞が、そんな「解釈」をも許容する、ゴダールの映画だからそう(好意的に)解釈されると発想する向きもおそらくはあるのだと思うのですが、しかし、その発想は明らかに間違っています。そもそも「ゴダールだから」というフィルターなど存在しておらず、何故なら、そんな阿房なことをする人間などこの世の中にゴダールを置いて他にはいないからです。彼の存在意義は其処にあります。似たような映画を撮る監督は他にもいる? すべてはゴダールの模倣もしくは亜流と理解して間違いはありません。

 此処に於いて私が最も映画的であると思うのは、男二人女一人の「三角関係」、恋愛のそれに限らず、基本的に映画が「3」という数字、あるいは「3人」と絶妙な相性をみせるのは、やはり、スクリーンが横長だからなのかも知れません。「2人」を(スクリーンに)バランス良く配置しようとすると幾分間隔が開き過ぎて、その関係を示唆するに於いて些か不自然、「4人」は中心が不在、「5人」以上となるとさすがに窮屈、莫迦げた話と思われるかも知れませんが、スクリーンと対峙するときの「感覚」など、案外そんなものです。此処に於いてその「3人」が如何に見事な「運動」をみせているか、自動車を正面から捉えたカットに象徴されるように、勿論、その中心は常に女、英会話教室の場面、階段の踊り場での煙草を巡る遣り取り、カフェでの目まぐるしい席の移動(此処でも煙草の遣り取りがあります)、マディソン・ダンス等々、物語的な意味に於ける男二人のバランスは予め崩れているのですが、スクリーンに「配置」されるそれらは常に均等、何よりも素晴らしいのは、女の2本の脚を男二人が平等に分ける場面、そういう場面と巡り会いたいがために、私は熱心に映画館に足を運んでいるのです。スクリーンが其処に「3」を捉えることが困難になるのと時を同じくしてこの映画が終わるのは、勿論、偶然などではなく、また、物語的な意味に於ける一人の死、即ち物語の収束がこの映画を終わらせているのでは決してなく、「3」から「2」へという映画的運動の変化が、それを終わらせているのです。最後から3番目の自動車を正面から捉えたカットの座りの悪さに、「もはや終わるしかない」というこの映画の状況が示唆されてもいます。

 映画的な装置と言えば、やはり「自動車」、映画的なものを寄せ集めるこの映画には勿論その物語とは殆ど無関係に、とにかく自動車がスクリーンに現れます。「工場の裏」で男二人が女を待つ場面に於いては泥濘んだ狭い空き地で自動車は無意味に円を描き、駐車されたそれには「TV」のシールが、移動する自動車の中で、あるいは駐車された自動車に凭れ掛かりながら、「3人」はいつにも増して快活に振る舞います。また、3人が自動車で移動する場面では、大した意味がなど到底あるとも思えないにも関わらず、カメラはその前後からの「切返し」を、そんな面倒臭いこと(少なくとも一端自動車と停めて、カメラとそれを乗せた別の自動車、それら2台の連結を変更する必要があるはずです)をわざわざ試みるくらいですから、ゴダールが如何に「自動車」もしくは「自動車と3人の関係」を重要視していたかが分かります。さらに言えば、それが同時録音以上の何らの脚色も為されていないのならば、おそらくは自動車本体に何らかの改造が加えられているに違いないあの大仰なエンジン音、確信犯であることは言うまでもありません。
 その他にも「自転車」や「電車」といった、やはり映画的な移動装置が、特に前者はアンナ・カリーナがそれに跨って軽快にスクリーンを横切る(手信号まで披露します)という、余りにも(余りにも)映画的な「運動」を其処に映しています。彼女が「工場の裏」に辿り着くまでのシークエンス(男二人が新聞を読むという如何にも「ゴダール的」な場面がカットバックされる、途中でボートを渡ったりするそれ)が異様に長いこともそうですが、其処にトリュフォーにも負けないくらいの「偏愛」を目撃することになります。

 如何にもヌーベルヴァーグ的な「現場主義」の所産、この映画はその「音」にも特徴が現れています。同時録音で録られたそれらは矢鱈と騒々しく、例えば、英会話教室の場面など、窓の外の喧噪が階上の教室にまで入り込み、其処に女教師の淡々とした「声」が重なり、さらにはメモによる「文字」の遣り取りが、それに付随する三角関係の「運動」も相俟って、かなり「煩い」場面になっています。カフェでの「無音」が効果的なのも、本来の騒々しさの故、其処に(台詞以外の)「音」の在ることを改めて教えることになるのです。そして、ルーヴルに響くあの靴音!

 さて、此処まで書いてみて、私が単に「場面」もしくは「シークエンス」を列挙しているに過ぎないことに改めて気が付くのですが、否、それがつまり、この映画なのです。それらを繋ぎ合わせてみれば、確かに、其処に如何にもちっぽけな物語を知ることになるのですが、しかし、それを知ることにどれほどの意味があるとも思えません。何れにせよ、此処に一つ断言できることがあるとするならば、「物語」と「マディソン・ダンス」、この映画にとって重要なのがどちらであるかと言えば、それは間違いなく後者であると、繰り返すようですが、それが「映画」です。

 64年に制作されたゴダールの旧作、劇場での一般公開(日本での)はこれは初めてのようです。所謂「シネマテーク」の類では既に何度か上映されており、私も一度くらいはその気になったこともあったのですが、結局、此処に至るまでこれを観るには至りませんでした。公開二日目の日曜日の午後、劇場は当然のように満員だったのですが、驚いたのはその客層、十代後半から二十代前半の若者が殆どでした。既に21世紀の現在、彼らが何を思って旧世紀のゴダール映画になど熱心に駆け付けるのか、私には少しも理解が及ばないのですが、あるいは、その不可思議さこそがゴダールたる所以、良くも悪くも、彼を中心に「映画」が展開するのは、まだまだ、当分の間は変わらないのかも知れません。


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