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回路
監督:黒沢清
2001年2月10日(新宿オスカー)

 第四人称の不在



 とても日常的とは云えない出来事を扱った映画に於いては、其処に在る「誰か」もしくは「何か」がそれを説明しなくては、観客は何一つの理解をも得ることができません。それが映画と雖も、観客はあくまでも「経験則」によって何かを理解するわけですから、その範疇にないものは、誰かの説明を待つより他にはないのです。大抵の場合、その主人公が如何にも映画的な「好奇心」を発揮して物語の進行に時を同じくして観客にとって「未知」の出来事を徐々に明らかにしていく、あるいは主人公のそんな映画的な動作が物語を動かすとも、犯罪推理物や超常現象物はそんな仕組みになっています。そうでなければ、其処に「解説者」の存在を捏造するという便宜を以て、観客に然るべき説明を、『未知との遭遇』でフランソワ・トリュフォーが演じたUFO学者など当にそれ、彼の解説のお陰で、自身にすら理解不能な主人公の動作の理由を観客は正しく知るに至り、延いてはその物語を不足なく了解するに至るのです。
 監督自身の言葉として「トリュフォーのいない『未知との遭遇』」と解説されるこの映画は、当然ながら、観客の理解が曖昧なまま、その物語を終えることになります。その傾向は近作の『カリスマ』や『CURE』にも顕れており、特に後者など、物語の途中から解説者が不在に転じることによって途端に(物語が)混沌に突入するという分かり易さです。「解説者」もしくは常人の行動とは明らかに矛盾する「好奇心」を(映画から)排除したそれを「現実主義的」などとするのは如何に莫迦げているのですが、しかし、そうすることによって、スクリーンの「非日常」が観客の「日常」に降りてくるのは紛れもない事実、あらゆるすべてが「既知」に転じることを以てその「終わり」をみるなど、少なくとも「日常的」とは言えません。斯くして此処に「分からない」が故の恐怖と、状況を回避するために「逃げるしかない」という物語が、我々の身近には科学者や元刑事など、そうそうはいないものです。
 興味深いのは、其処に説明されるべき何らかが予め欠落しているわけでは決してないということ、私自身未読ですが、監督自身によってノベライズされた小説には、明確な状況説明が為されているようで、それは『CURE』の場合と同じです。小説では為されていることを映画ではサボタージュする、それは映画に於ける所謂「第四人称」の不在、あるいは、映画ではサボタージュできても小説ではできないという、むしろ映画優位の発想に結び付けることもできるのかも知れません。何れにせよ、あらゆる「説明」あらゆる「物語」など、所詮は「言語」に帰するもの(否、それらはそもそも「言語」以外の何物でもありません)、それが排除されたとして、しかし、映画が損なうものなど何一つもないということです。

 ロバート・ゼメキスのそれは、モンタージュとクロースアップの多用によって、其処から「空間」を排除、あらゆる「予感」をスクリーンの外に置くことをして些か子供染みた恐怖を捏造したのですが、此処に於いては、むしろ、執拗に「空間」を捉えることによって、其処から滲み出す恐怖を演出しています。手法は対照的、物語序盤、温室内部をガラス越しに捉えたショットが既にそうであるように、この監督の得意とする「長回し」が絶妙な効果を発揮しています。其処には、赤いテープの貼られたドア、無意味に数を捏造されたパソコンのディスプレイ、人の気配のまるでしない大通り等々、我々の認識よりほんの少しだけ「異質」に転じた日常の風景が、決して驚くべき何かが「在る」わけでもありません。否、正しくは其処に空間が「在る」と、これは当たり前のようで、しかし、映画とはそもそも時間と空間をバラバラに裁断する装置、其処に空間が在るだけで、既にある種の予感を孕んでいるのです。簡単な話、何もない空間をカメラが捉え続ければ、観客は其処に「無意味」を発見するのではなく、あるはずの「意味」を予感する、何故なら「無意味な映像などあり得ない」という一種の既成概念を有しているからです。

 では、此処に於いて具体的に何が観客に恐怖を抱かせるのか? しかし、そんなことを一々列挙していても詮方ない、そんなことは余程暇な誰かに任せるとして、否、一つだけ挙げておけば、「幽霊を掴む」という大概の観客の予想を大胆に裏切る場面があって、これにはさすがの私もゾッとしました。尤も、個人的には、旧作のセルフ・パロディーのような場面、あるいは『暗くなるまでこの恋を』か『気狂いピエロ』を連想させる男女の逃避行の物語(勿論、自動車)にニヤついてみたり、とても「ホラー映画」と対峙する心持ちでもなかったのですが、しかし、とにかく、この映画が如何に優れているかという「事実」を終始実感しながらのフィルム体験でした。
 尚、「ネットスリラー」とも謳われているこの映画に於いては、実際、どれほどもインターネットが活用されるわけでもなく、何処かへの入口、もしくは人間を閉じ込める小さな箱の暗喩としてのパソコン(のディスプレイ)とモデムの「音」が、人間の生理に反する不快な装置として其処に配されているだけ、あるいは、単に「現代」を其処に持ち込むための一つの便宜に過ぎません。

 公開初日の午後、残念なことに劇場はガラガラでした。私はそもそもテレビなどまるで観ない人間ですから、詳しくは知らないのですが、テレビでもそれなりに宣伝がされていたようですし、出演者はテレビドラマなどにも割とよく出ている人のよう、この映画の実質とはまるで関係のない事とは言え、客を集める要素はそれなりにあったはず、一体どうしたことでしょう? やはり、テレビと映画は既に棲み分けができているということなのかも。何れにせよ、1カ月も持たず早々に公開打ち切りとなっても少しもおかしくない状況、パンフレット(500円)を買うと漏れなく(多分)CD−ROMのオマケが付いてきます、ココロある人もない人も、急いで映画館に駆け付けましょう。


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