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リトル・ダンサー
監督:スティーヴン・ダルトリー
2001年2月11日(シネスイッチ銀座1)

 現実を遣り過す物語



 上りであれ下りであれ、坂道が人生の比喩であるなど然して珍しくもありません。スクリーンに映し出される坂道、あるいは傾斜のイメージも、やはり、人間の置かれた状況を何らか示唆するものであるように思われます。『オルフェ』や『アンジェラの灰』がそうであるように、それが「貧困」のイメージと連動するのは、勿論、「経済」との直接的な関わりを指摘することもできる(貧乏人は平地には住めない)のですが、しかし、単にそれだけということでもないはず、彼らは不遇に際して坂道を上り、状況の好転をみるに自転車で、ペダルにすら足を掛けず、下り坂を滑って往くのです。状況としての「貧困」が物語的に重要な意味を持つこの『リトル・ダンサー』に於いても、やはり、坂道と傾斜のイメージがスクリーンを支配しています。父親と喧嘩をして家を飛び出す少年は坂道を駆け上がり(側面からのロングショット、当に「駆け上がる」イメージです)、炭鉱労働者と武装警官隊の衝突の場面も、当たり前のように坂道に展開します。あるいは、歓喜した父親が一目散に駆ける場面が取り分け感動的なのも、其処が「坂道」であるからに他なりません。

 ウェス・クレイヴン監督の『ミュージック・オブ・ハート』が些か不出来な映画であると思うのは、物語序盤、生徒達が少しずつバイオリンを上達して往く過程が、専ら「音」の変化によって表現されていた故、スクリーンに映るものが何一つ変化していないにも関わらず、観客の耳に届くバイオリンの音だけが見事な成長を遂げているのです。これは実に安易な演出、観客は確かにその成長を不足なく了解するに至るのですが、しかし、それは些かも「映画的」な体験とは言えません。他方、この『リトル・ダンサー』に於けるそれと似たようなシークエンスでは、それとはむしろ対照的な表現が為されています。或る偶然からバレエ教室の一員となった主人公の少年の悪戦苦闘の様子が、時間の経過を示唆する目まぐるしい「カットバック」によって映されるのですが、実は、其処での少年は、シークエンスの最初と最後を比べてどれほどもバレエが上達しているようには見えず、観客がその「才能」に疑問を感じたとしても何ら不思議はないのです。しかしそれでも、そのシークエンスが少年の成長を間違いなく我々に教えるのは、何よりも彼がバレエに「夢中」になっている、堰を切ったようにバレエに対する情熱が溢れ出してくる様子が其処に捉えられている故、此処に於いて技術の上達などどれほども重要ではない、否、むしろ目に見える上達など何処にもないからこそ、なのです。バイオリンへの興味がどれほども高まったように見えないにも関わらず、技術の上達だけが其処に示されたクレイヴン監督のそれとは実に対照的、この比較が必ずしもフェアとは言えない(一方が教師の物語で一方が生徒の物語)にせよ、それらに顕れた(映画としての)「質」の差違を疑うことなど到底できないはずです。

 大抵の戦争映画が、其処に在る人物群の中で最も運の良い人物を中心に語られているのなど今さら言うまでもないこと、彼は少なくとも「2時間」は生き延びるのです。この映画も同じこと、千人いる子供の中で、最も運と才能に恵まれた人間が選ばれ、物語の対象になっているのです。もし、この映画を「非現実的」という人がいたとするならば、その人にとって映画の「現実/非現実」を分けるものは、カメラが誰を其処に捉えるかという決定が為されるのと同時に決定されるということに、つまり、在り来たりな人物にカメラを向けたそれが即ち「現実的な映画」であり、逆に、千人に一人の逸材にカメラを向ければ、それが「非現実的な映画」と、これが如何にも莫迦げた理屈であるのは言うまでもないことです。この理屈で言う「非現実的」な存在をその中心に置きながらも、しかし、ひたすらに「現実的であろう」と躍起になっていた『ペイ・フォワード』とこの映画の違いは(否、先ず以てこの映画の中心にいる存在の方が余程現実的なのですが)、専ら物語と現実の関係にあります。『ペイ・フォワード』に於いては、物語が現実に挫折することを以て「現実的」と、ならば、物語が現実を悉く遣り過ごしてしまう『リトル・ダンサー』が「非現実的」であるかと言えば、決してそうではなく、その何れもが「現実」を其処に捉えた「物語」であるという意味に於いては同様で、両者の差異はあくまでもそれらの関係に、つまり、前者を「現実的」とするのは、単なるペシミズムに過ぎないのです。さらに言えば、後者は現実を運良くも悉く遣り過ごし得た人間の物語であり、前者は、それに挫折した人間の物語、何れもが「現実的」であり且つ「物語的」なのです。肝要なのは、物語が如何に速やかに其処を流れるか、『ペイ・フォワード』の蹉跌は、劇中の人物ばかりではなく、当に物語それ自体が何かに挫折してしまったことに、あの無様な「奇跡」が何よりもそれを雄弁に物語っています。

 この映画の良さは、何よりもその「単純さ」にあります。物語が先ず以て単純ですし、また「バレエ=白鳥の湖」という衒いのなさも、状況を分かり易くしています。そもそもこの映画に於いては「バレエ」という特定のジャンルがどれほどの意味を持つものでもなくて、実際、其処に流れてるのはあくまでもT−REXやスタイル・カウンシルで、また少年のダンスはむしろミュージカルを連想させるもの、この映画がバレエに場面を譲ることなど一度もないのです。此処に於ける「バレエ」は、あくまでも情況との落差を捏造するための装置に過ぎず、つまり、少年が、例えば、ロックミュージシャンを目指すような物語は、今どき「企画」として認められないということ、何かを「克服」する物語は、先ず以て「落差」が要求されるのです。炭鉱労働者とバレエ、この実に明快な落差、すべては単純に図式化され、何一つの難解さとも無縁です。演出にしても然り、この映画の最後の場面、殆どすべての観客はある「謎の人物」の正体をほんの1カットで見抜いてしまうのですが、この映画のすべてを、その場面とそうなるべく構築された演出が象徴していると言っても間違いはありません。

 公開から既に何週か経っている日曜日の午後、週末はすべての上映回で立見が出ているようで、私が観た回も勿論そう、上映開始30分前に、既に表通りにまで伸びた行列の後ろに付いた私が立見だったのは致し方のないことです。物語が終わりに近づくと、其処彼処から嗚咽が、とは言っても、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のそれとはまるで種類の違うものでした。
 この映画が長編デビューとなるこのイギリスの新人監督は舞台演劇出身者、ハリウッドで雨後の筍のように出現したMTVあるいはCM出身の新人監督などに比べて、余程「映画的」な映画を撮れてしまっているのが何とも不思議な感じ、否、不思議でも何でもないのかな?


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