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東風
監督:ジガ・ヴェルトフ集団
2001年2月17日(シネセゾン渋谷)

 ゴダールの諦念



 映画にはそもそも「物語」など存在しません。何故ならそれはあくまでも(その映画を観た)「受け手」に於ける「言語活動」の所産に他ならず、予め其処に在るものなどでは決してないからです。つまり、映画を観た誰かが其処に目撃した映像の連鎖から、一般に物語として認識されるそれらを言語として呈示する二次的なそれこそが「物語」であり、また、それが「言語」以外の何物でもあり得ないという理由から、決して予め、後に言語として示されるそれと全く同様のカタチで其処に在ることなど不可能、私の知る限りの例外として、ゴダールの『女と男のいる舗道』に於いてそれに近い試みが為されてはいるのですが、しかし、とても成功しているとは言えません。それは文学に於いても同様、それらは予め言語として呈示されるものではあっても、しかし、所謂「物語」が其処に記されることなど決してなく、あくまでも、其処に在る言語の総体を、やはり「受け手」が言わば「要約」の要領で二次的に示し得るに止まります。勿論、「送り手」は、結果として其処に予め意図された通りの「物語」が生起されるべく、映像なり文字を連ねるわけで、その意味に於いて、「予め在る」としてしまうのも、そんなに悪くない発想なのですが、しかし、あくまでも「其処に在るもの」として、「送り手の意志」と「受け手の解釈」の中間に吊されたものとしてそれを認識すれば、やはり其処に「物語の不在」を認めるざるを得ないのです。

 映画の「解体/再構築」と言っても、そんなに難しい話でもなくて、上述した「物語」を導き出す一連の動作が既に「解体/再構築」の一種であり、つまり、我々が「物語」として誰かに語り聞かせるそれは、あくまでも映画館の暗闇で目撃した「映像の連鎖」を一旦「解体」し、言語として「再構築」した結果に他ならないのです。もしくは映画それ自体が(予め構築された)思考が一時的に「解体」された状態に他ならず、我々は「映画を観る」ことによってそれらを「再構築」しているとも言えるのかも知れません。勿論、もしそれが予め其処に存在しているのならば、「解体/再構築」という作業など不要、しかし、決してそうでないのは既述の通りです。一般に「難解」とされる映画の多くは、その一連の作業に困難を極める類を言うのであり、必ずしも予め在る「送り手の意志」自体が難解なものを言うわけでもありません。もし仮に、ゴダールの映画を「難解」と思う人がいるとするならば、それはつまり、そういうことなのです。

 その理屈に則って、では、この『東風』というゴダールの映画が「難解」なのかと言えば、しかし、決してそうではなくて、むしろ、これほど分かり易い映画もないと言えるのかも知れません。「送り手の意志」の殆どが「ナレーション」の形式を借りて予め「言語化」されており、また、映像とその連鎖は極力簡略化、要は「記号化」されており(浅田某はそれを「紙芝居」あるいは「ブレヒト的」と)、それに相応しい言語を発見することにどれほどの困難も伴わないはず、従って「解釈の余地」すら殆どないとも言えます。その意味に於いてこの映画は紛れもない「思考停止」の装置、換言すれば、思考は映画館の暗闇にではなく映画館の外に存在していると、つまり、受け手による「解体/再構築」を不要としているのです。それでもこれを「難解」という人がいたとするならば、その人にとって難解なのは、専ら「ナレーション」として繰り出される「言語」それ自体、あるいはその総体としての「思考」であると、尤も、其処に要求されるのなど、映画とはどれほども関係のない「教養」の類に過ぎません。

 映画が「それ自体」であり得るのは、映画館の暗闇に於いて「今まさに観られつつある瞬間」を置いて他にはなく、その前後には、あくまでも「言語」として構築あるいは再構築された「物語」なり「思考」が在るのみです。ゴダールの諦念は即ち其処に、「映画それ自体」を暗闇に明滅する光以上のものとして、受け手による「再構築」を待たずして既に「思考」であり得るものとして、ゴダールの一連の映画とは、つまり既に「解体」された状態で我々の前に差し出され、それは「再構築」などという作業をすら必要としないくらいに単純なパズル、其処に在るのは「思考それ自体」に他ならないのです。あるいは映画を観終わった後の我々の頭の中身が予め其処に在るとも、その割には些か分かり辛いのは、それが他人の頭の中身である故、此処で言う「他人」とは、勿論、ゴダールその人のことです。

 既存の映画を「或る特定階級によるプロパガンダの手段に過ぎない」と位置付けた、ゴダールなりの「階級闘争」が此処に、しかし、何よりも肝心なのは、それでも、其処に相変わらず「映像」が取り残されているという事実、それはゴダールにすら「80年代」が訪れたという事実と、決して無関係ではないはずです。

 午後9時20分に上映が開始されるレイトショープログラムの初日、この上映は「浅田彰セレクション」の一環であり、この日に限って、上映前にその主催者と東大の松浦寿輝による座談会が、その影響もあってか、終演が午後11時を過ぎるというのにも関わらず立見の出る盛況ぶりでした。その座談会、時間的な制約もあって、「今さら分かり切った話」が繰り返されたに過ぎないのですが、しかし、この映画にせよゴダールにせよ、案外その程度に「要約」できてしまうものなのかとも、一般に警戒されているほど厄介なシロモノでもないような気がします。
 余談ですが、この映画には二種類の「ナレーション」があって、同時録音の音を完全に遮るものと、そうではないものが、この映画に限らず、ゴダールのこの類の映画を観るに際して、私は前者を殆ど無視することにしています。つまり、字幕を読まない、字幕を介して得る「言語活動」を予め抛棄しているということです。勿論、私にフランス語の素養があって、それを「音」として直接的に理解できるのであれば、決してその限りではないのですが、残念ながらそのようなことなどとても能わない無教養に過ぎませんから、次善の策として、「文字」に変換されたそれらを無視することに。「読む」ことに気を取られて「観る」ことが疎かになってしまうことを回避する意味も勿論あるのですが、ゴダールの場合、「文字」は「文字」としてまた別に示されることが多く、つまり「音」はあくまでも「音」として認識されるべく其処に在ると、それを「読む」という動作は、余りにも間が抜けていると、そんなふうに思うわけです。


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