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ハムレット
監督:マイケル・アルメレイダ
2001年2月17日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 それが問題だ!



 坂口安吾の時事評論の類を読んでいると、その「時代」を錯覚してしまうことがあります。例えば、政治家の疑獄事件に関する文章など、もう何十年も昔に書かれたはずのものが、まるで昨今の事件を評したものであるかのように、其処には少しの違和感もありません。それは「人間の本質」というものが、縦い千年の尺度をしてみても、どれほども変わり得ないものであり、それはまた、安吾が「時代」に惑わされることなく、当に「人間そのもの」を視ていたという何よりもの証左と言えます。政治にせよ社会制度にせよ、一般に普遍的とされるそれらは、およそ「人間の本質」の普遍性に由来し、つまり「人間のやること」など高が知れているということです。

 時代を超えて「反復」に耐え得る物語とは、即ち其処に「人間の本質」を捉えたそれに相違なく、主題の普遍性もやはり其処に由来します。従って、その「反復」に際して、其処に「時代」を示すことにはどれほどの意味もなく、単に「人間」と「その関係」だけを残せば、それで十分に物語が再現されるはずです。勿論、物語やその主題以外の、伝統的な何らかを其処に示す必要がある場合はその限りではないにせよ、物語的主題を第一義とするならば、「時代」など捨ててしまった方が、むしろ、より分かり易くなります。本来的な主題の伝達に加えて、意図的に残された「時代コード」のズレは、其処に絶妙な「異化効果」を発揮するのです。

 この映画の本末転倒は、舞台が「現代」に置き換えらているという、今さらどれほども驚くに値しないことが何よりも強調されており、そのことが本来的な主旨を怪しくしているという点にあります。何かにつけ登場するハイテク機材(ハムレットの父親の亡霊は監視カメラのモニターで発見されます)もさることながら、何よりも、人物とその背後の風景を「仰角」で捉えるそれは、現代的な都市のイメージを殊更に強調します。しかし、だからと言って、それが「現代」であることに特別な意味があるわけでもなく、単なる「置き換え」とその「遊技」である以上のものを其処に発見することはできません。また、其処に中途半端に引用された旧来通りの台詞も単に煩わしいだけ、それによってむしろ「現代」が異化されているは、決して意図されたことなどではないはずです。例えば、この映画にもある、現代に持ち込まれた「決闘」や「復讐」という劇中人物の如何にも古めかしい動作は、明らかに「旧時代」を異化することになるのですが、しかし、此処に引用される、如何にも芝居染みた台詞群は、むしろ逆の効果を、つまり、これが「現代に移植された物語」であることを、やはり強調することになっているのです。

 確かに、シェイクスピアによる圧倒的に美しい(らしい)言葉は、それ自体もまた時代を越えて何らか普遍的であり得るに違いないのですが、しかし、それが「表層」の美しさである限りに於いては、やはり「状況」が選ばれて然るべき、レザージャケットのイーサン・ホークがレンタルビデオ屋で「生きるべきか、死ぬべきか…」と自問するそれは、喩えて言うなら、パンク版の「君が代」かレゲエ版の「ラ・マルセイエーズ」のような、勿論、それに類する意図が其処に在るのなら話は別なのですが、此処に在るのは、おそらくは純粋な「リスペクト」のはず、こうした引用が状況を異化してしまう事態に気が付かないほど迂闊だったということでしょうか。既述の通り、むしろ「現代」が異化されてしまうのは、やはり、シェイクスピアによる言葉が圧倒的である故、その言葉ではなく、それを発する人間とその風景としての都市が、まるで陳腐なものに見えてしまいます。もしかして、それが「正解」なの?

 斯くして、表層に圧倒された表層の物語は、その本来的な意味をどれほども現代に伝えているとは言い難いものに、あるいは、如何なるハイテク機材を駆使しようとも、其処に人の心を映すことはできない、そんなことを示唆しているとでも? 否、それならば、監視カメラが亡霊を発見するという斬新なはずのプロットが、新たな矛盾を引き起こすことになるのです。

 公開から既に何週か経っている土曜日の午後、それでも、3分の1くらいは埋まっていました。個人的には、ただ単にサム・シェパードを観に行っただけ、結果的にもそれ以上の体験ではあり得ませんでした。この劇場では、つい先日まで『17歳のカルテ』という大して面白くもない映画がロングランになっていた煽りで、本来は今ごろ既に上映されているはずのウディ・アレン監督の『ギター弾きの恋』の公開がいまだ先送りされているという不本意な状況、こんな映画は早々にも打ち切って、次に順番を回すべきです。


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