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キャスト・アウェイ
監督:ロバート・ゼメキス
2001年2月24日(新宿プラザ)

 斯くて分断されたもの



 何もない広野に地平線に届く一本の舗装された道路、遠くから一台の自動車が走ってくる、そんな風景を捉えたロングショット。この映画はそんな、如何にもアメリカ映画らしい場面に始まります。しかし、それに続くカメラの動作は些か奇妙で、スクリーンの右から左に向かって移動する自動車の速度よりかなり速い速度で左にパンし、スクリーンから一旦自動車を追い出して、その道路の先にある十字路をスクリーン中央に捉えたところで停止、暫くするとスクリーン右端から(一時スクリーンから消えていた)自動車が現れるというわけです。此処に捉えられた十字路は、実は物語後半にももう一度現れ、つまり、物語的にもそれなりの意味を持つ場所であり、従って、此処に於ける主眼は自動車ではなく十字路に、このカメラ(の動作)の意図を説明すれば、概ねそんなところに違いありません。そんな意図を了解しつつも、しかし、其処にどうしても違和感を覚えてしまうのはそうやって空間を何喰わぬ顔で「分割」してしまう態度が、およそ私の趣味に適わないからなのかも知れません。「私なら」という話など無責任極まりないと自覚しつつも、しかし、私なら、全景を捉えたロングショットの中に予めその十字路を入れておくか、そうでなければ、スクリーンから自動車が消えないように、もう少しゆっくりとカメラをパンさせます。何よりも許し難いのは其処に持続されているはずの自動車の「運動」を、どれほどの必然性を伴わないにも関わらず、止めてしまうこと、あるいは、ロングショットを用いながらも、肝心のところで風景を分断してしまうこと、素人の戯言と思うなかれ、この監督は一事が万事この調子なのです。

 この映画の撮影の長いインターバルに撮られたらしい『ホワット・ライズ・ビニース』に於いては、斯様な「無神経さ」が恰も映画的な「技法」であるかのように示され、如何にも低俗な恐怖が其処に捏造されるに至ったのですが、此処に於いてもそれと大差のない方法で、観客は何とも悪趣味な場面を目撃することになります。例えば、トム・ハンクス演じる主人公が海底の岩に脚をぶつけて大怪我をする場面、カメラは先ず海面に叩き付けられる主人公を捉え、次に、如何にも意味ありげに海底の岩を捉え続けます。数秒後に其処に現れるのは、勿論、主人公の脚、観客は当然その事態を予測し得ていますから、カメラが岩だけを捉え続けているカットを何とも「嫌な気分」で目撃し続けることになるのです(脚が岩に叩き付けられる瞬間の「ボキ」だか「グキ」だかいう滑稽な効果音も止めてもらいたいところです)。確かに、こんなカット割りを一々「悪趣味」と罵っていては世の中の大半の映画から顔を背けてなくてはならなくなってしまうのかも知れません。またその理屈に従えば、オープニングのそれは、其処に自動車が現れることのみならず、何れ物語がその場所に「回帰」することさえ観客に予感させる、少なくともそんな意味が込められていると好意的に理解することも可能なのですが、しかし、だからと言って、其処に在るはずの「空間」と「運動」を平気で分断してしまう無神経さが許されるというものでもありません。その無神経さの根底にあるのは、そうする(できる)ことが、映画の「特権」であるかのように勝手に思い混む恐るべき誤謬に他ならないのです。俗に言う「平板な映像」は、斯く生まれるのです。

 この映画にも良いところはあって、例えば、無人島生活の序盤、主人公がその社会性を完全に抛棄する契機を「職業倫理の抛棄」に重ねているのなど、(色々な意味で)よく考えられたプロットだと思いますし、また、ポーの小説を連想させる「シニフィエなきシニフィアン」が物語に一本筋を通しているのも案外洒落ています。尤も、無人島に於ける人間とバレーボールの「交流」というのは、あれに何らか感動する人もいるのかも知れませんが、しかし、穿った見方をすれば、あの状況に於けるバレーボールというのは、場面の無声状態を回避するための便宜のようなものとも、実際、主人公がバレーボールとその活用法を「発見」するまでは、殆ど「無声映画」のような場面が続くわけで、観客がその状況に耐えられなくなった頃合いを見計らって首尾良くそれが「発見」されるという、案の定、主人公は堰を切ったように台詞を垂れ流し始め、場面は「無声映画」であることを止めます。否、そもそも、此処に応用されていることは非常に危険なことでもあって、「観客はバレーボールにすら感情移入できてしまう」というそれは、映像の連鎖が持ち得る途轍もない威力を誇示すると同時に、映画というものが実はとんでもない「はったり」であること(それ自体は間違いではありません)を莫迦正直に告白してしまうことにも、私に言わせれば、こういうのは映画に於いて「やってはいけないこと」の一つ、明らかな倫理規定違反です。

 公開初日の午後、歌舞伎町の大劇場は、いつもは不自然な「空洞」を形成している指定席ですらその殆どが埋まっているという盛況ぶりでした。もしそれが「ロバート・ゼメキス監督+トム・ハンクス主演」という「看板」の効果だとしたら、世の中には『フォレスト・ガンプ』などという映画を何らか面白いと感じた人間が余程多いということなのかも知れず、それを「ゴミのような映画」と公言して憚らない私としては、そんな世間との感覚のズレをむしろ愛おしくも感じてしまいます。些か大仰というか不遜というか、そんな話にもなってしまうのかも知れませんが、ロバート・ゼメキス監督という存在は、私の中では「今どきのミスター・ハリウッド」という感じに位置付けられており、彼の映画を観る度に「(今どきの)ハリウッドの悪弊」とか「(今どきの)ハリウッドの限界」ということが漠然と感じられてもしまいます。此処にも書いた「平板な映像」とか「底の浅い人間ドラマ」とか、要は何の面白味もなく退屈な…、否、「嫌い」と言ってしまえばそれで済む話ですか。


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