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カサヴェテス、雑感1
ジョン・カサヴェテス映画祭(1)
2001年2月25日(キネカ大森1)

 映画の自己投企



 世の中には二種類、カサヴェテスが分かる人間と分からない人間がいる。

 上映に先駆けて行われたトークショーの席での塩田明彦監督の発言です。「分かる」とか「分からない」という何かを差別するような言辞は些か不遜であるような気もするのですが、現実問題として、世の中のすべての人間にカサヴェテスが「分かる」はずもないことは、彼の残した作品が実際に置かれている状況に明らか、少なくとも『タイタニック』がそうであるほど「分かる人間」に恵まれているとは言えないでしょう。では、何が彼の作品を分かり難くしているのか、例えば、80年代以後のゴダール作品の「難解さ」を説明するのは案外簡単なのですが、カサヴェテスのそれは、少なくとも観客の目に直接的に映るもの、あるいはその連鎖が何かを分かり辛くしているわけでは決してなく、あるいはカサヴェテス作品を「分からない」とする人間の多くが、何よりも其処に「退屈さ」を感じてしまうのは、むしろ「分かる」故、既に「分かっていること」が執拗に引き延ばされまたは繰り返される、故に「分からない」と。

 此処に於ける「分からない」は、観客それぞれに有するのであろう「映画の常識」との比較の場面に於いて、明らかにそれに反する故にそんな結論が導き出されてしまう違いありません。その意味に於いてはゴダールも同様、彼の場合は「映画の解体」と称して確信犯的にそれを実践しているのですから、そうなるのも道理です。そもそもの「映画は斯くあるべき」という発想が些か莫迦げているという話はさておくとして、カサヴェテスの場合、勿論、彼にしても確信犯であることには違いないと思うのですが、ゴダールのそれが思考の果てに現れた「制度の解体」なら、カサヴェテスのそれはまるで無自覚であるかのような「制度からの逸脱」、彼は何一つも壊さない代わりに、涼しい顔で「制度」を遣り過ごし、軽々とその枠を飛び越えてしまうのです。しかし、何れもが「反=制度」的映画であることに変わりはなく、此処で言う「反=制度」的映画はとは即ち「分からない」映画のこと、些か抽象的になってしまいましたが、ゴダールとカサヴェテスに対する「分からない」の差異は、其処にあります。カサヴェテスの映画が「分からない」とする人達は彼が何故「ルール違反」をするのか、そんなことをして一体何が愉しいのか、それが「分からない」のです。

 カサヴェテスの「ルール違反」の典型は、決して何が起こるというわけでもない一つ一つのシークエンスが異様に長いということ、それは明らかに制度を逸脱しています。例えば『フェイシズ』など、大雑把に言えば、それぞれに30分もある長たらしいシークエンスが四つ並べられているだけの映画(結果的に見事に2時間の「枠」に収まっているのが絶妙)、そのそれぞれのシークエンスにしても(制度に照合して)その長さに見合う必要性があるとはとても言えません。状況説明の必要という意味に於いて、制度が其処に許すのなど精々3分、それを当たり前のように30分も続けるのですから、その逸脱ぶりが知れようというもの、制度の快楽に慣れてしまった観客が其処に「退屈さ」を感じてしまうのも致し方のないことなのかも知れません。

 では、彼は何故「ルール違反」をするのか? しかし、そんなことを幾ら考えても何一つを了解することもできないに違いありません。常識的に物事を発想する大抵の人間というものは、制度があって初めて映画が存在すると考えます。換言すれば「映画とは××である」という何らかの「定義」が先ずなくては「映画」はあり得ないと、これは至極真当な発想で、従って、他でもない「映画」を撮るつもりの大抵の監督は、その制度の枠内で何らかを試みる、否、制度の枠などまるで意識することなく、結果的にその枠内に収まるものが出来ているというのが殆どに違いありません。然るにカサヴェテスの場合は、先ずは「映画」が在る、如何なる制度にも従属しない「何か」が先に存在し、それが至って自由な方法(一般に「即興演出」と呼ばれるそれ)でフィルムに焼き付けられ、結果として大抵の人間が絶対だと信じて疑わない「制度」を大いに逸脱した「映画」が生まれてしまう、しかし、カサヴェテスにしてみれば、それは彼の中に先ず在った「映画」が他者の共有を許す形でスクリーンに再現されたに過ぎないのです。蓮實重彦の言葉を借りれば「カサヴェテスはスクリーンの枠が長方形であることを忘れている」と、つまり、そういうことなのです。

 カサヴェテス映画の「自由」は、サルトルの実存主義が提起した「自由」にもまた似ています。本質に先んずる実存、制度に囚われないのではなく、制度などそもそも存在しないという発想。映画は「自由の刑」に処せられている、故に制度が生まれる。カサヴェテスの映画が信じ難いほどの輝きと躍動感を伴うのは、それが、決して制度になど甘んじることのない、本来的「自由」に立ち向かう実践的主体である故、観客は当に映画の「自己投企」の瞬間に立ち会っているのです。

 大森で「ジョン・カサヴェテス映画祭」と銘打たれて10本の作品(うち1本は彼の息子であるニック・カサヴェテス監督の作品)が3月30日まで順次上映されています。今回私が行った2月25日は『アメリカの影』と『フェイシズ』が上映されていました。何れも劇場、あるいはビデオで既に観た作品ばかりなのですが、私としては、取り敢えず今回上映される全作品に駆け付ける予定をしています。従って、当分の間はこの「カサヴェテス、雑感」が(気の向く限り)続くはずです。カサヴェテスをいまだ御覧になったことのないという方は、これを機に、近隣に在住の方は映画祭へ、そうでない方はビデオを借りて、映画が本来的に「自由」な存在であることを確認なさってみては如何でしょう。もし「分からない」という方がいたら、その方は、分かるまで観て下さい。ちなみに、映画祭の会場はガラガラです。


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