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ハイ・フィデリティ
監督:スティーブン・フリアーズ
2001年3月3日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 先刻承知です



 スクリーン上の人物が観客に対して何かを直接的に語り掛けるとき、其処に一種の「異化効果」が発揮されることになるのですが、この構造の根本にあるのは「観る者」と「観られる者」の本来的な関係の破綻にあります。通常、スクリーン上の存在、俳優が役を演じるそれは、当然ながら「観られる」ことを前提としながらも、しかし、あくまでもそうでないふうを装って其処に何らかの動作を再現します。それが即ち「演技」ということなのですが、観る側にしても、自身が目撃しているそれがあくまでも俳優による「演技」によって展開される虚構に過ぎないことを了解しつつも、その物語等の性質よって距離の置き方は一様でないにせよ、そのような意識(それが演技に過ぎないという)を予め排除した上でスクリーンと対座する、それが当たり前な「映画の愉しみ方」というものです。此処に成立した「観る者」と「観られる者」の一種の共犯関係が、所謂「同化」、観客の感情移入を可能にするのですが、しかし、スクリーンからの直接的な語り掛けは、その関係を御破算にしてしまいます。それは「観られる者」が「観られていること」を「観る者」に意識させる、つまり、彼らの語り掛けは「私はあなた方に観られていることなど先刻承知です」と告白してしまうことにもなり、その告白によって、「観る者」もまた自身が其処に目撃しているものが「観られること」を前提とした単なる「お芝居」に過ぎないという、予め排除していたはずの意識を取り戻してしまい、改めてスクリーンのそれを客観的に見直すように、即ち「異化」されるわけです。それは、縦いスクリーン上の存在が観客に対して何らか「同調」を求めるような言辞を弄したにしても、本来的な関係が既に破綻していることをして、決して感情移入を促すことにはならないのです。

 この映画に於けるジョン・キューザックの「語り掛け」も、勿論、「観る者/観られる者」の本来的な関係の壊しています。考えるべきは、此処に於いて何故そのような手法が選択され「観る者/観られる者」の本来的な関係を破綻させる必要があったのかということです。もしこれが政治や社会制度を諷刺する類の映画ならば、其処に試された「異化効果」の意味を知ることも容易なのですが、しかし、此処にあるのは単なる恋愛に関する物語に過ぎません。むしろ、観客に何らか感情移入を促した方が余程意味があるはず、しかし、それにも関わらず敢えて感情移入を許さない手法が用いられているのは、つまり、観客による感情移入などそもそもどれほども期待されていないということ、それは所謂「音楽オタク」という、主人公の些か特異な人物像にその理由があるはずです。もし仮に、この物語が通常の演出手法によって再現されたならば、其処にはかなり異常な物語世界が展開してしまうはず、と言うより、そうしなくてはどれほども主人公の「個性」を伝えることなどできないのです。その場合、その「異常さ」に同調できる一部マニアを例外として大抵の観客は「主人公に共感できない」とそっぽを向いてしまうに違いありません。しかし、だからと言って、主人公のその個性を観客が妥協できる範囲に止めてしまうと、何の取り柄もない単なる恋愛の物語に、その存在の必要性すら疑われてしまいます。此処に於ける主人公の「語り掛け」は、要するに観客とスクリーン上の人物の「折合い」を模索するための試み、あるいは、其処に良好な関係を構築するための主人公の側からの「歩み寄り」とも言えます。

 こうした「歩み寄り」は然して珍しいものでもなく、例えば、この映画のスタイルが直接的に影響を受けているのであろうウディ・アレン監督の映画の多くがそうとも言えますし、また、些か特異な人格(例えば「天才」の類)に関する物語の多くが、その当人が主人公ではあっても、あくまでも別の人物による「間接話法」によって語られていることもやはり同様の「措置」と言えます。天才による第一人称表現など、大抵の観客を不快にしてしまうのです(不快さを回避しようとすると、天才の影が薄くなります)。

 この映画の主人公は別に天才でも何でもないのですが、例えば「人間の価値は人間性などではなく、その人間の聴いている音楽の趣味によって決まる」というような台詞からも分かる通り、彼はオタク特有の歪んだエリート意識を持つ人物に他ならず、ジャック・ブラック演じる同僚店員が大抵の観客にとって不快であり、トッド・ルイーゾ演じるもう一人の同僚店員がやはり大抵の観客にとって不可解であるように、主人公もまた本来不快で不可解な存在、彼は観客に語り掛けることによって、先ずはそれを「あなた方とは余り関係のない私個人のこと」と理解させ、そして彼自身もまた自身の過去に対して至って客観的な態度を以てその分析を展開し、「どうぞお付き合い下さい」と観客に謙るのです。自虐的な態度で告白を続ける彼に観客は安堵を覚え、温かな心持ちで彼を見守ることになるのです。肝要なのは、主人公が単にその人格のレベルで謙っている、つまり、人格そのものを観客の好みに合わせているのでは決してなく、あくまでも映画自体を巻き込むカタチでそうしているということ、自身の告白に付き合わせるために観客を映画館に呼び付けるなど、実はこれほどの「独善」もないのです。自虐的な態度を示してみせる人間は、往々にして何かを隠しているものです。何れにせよ、さすがに其処までは見抜くことのできない至って善良な観客達と、彼は見事な「折合い」を果たしているのです。

 この映画は勿論、主人公が終始観客に向かって語り掛けているのでもないように、場面に応じて観客との距離が巧みにコントロールされてもいて、既に指摘したような「一定の距離」が常に保たれているというわけでもないことを付け加えておきます。そして、その巧妙な操作がこの映画をより一層愉しめるものにしていることもおそらく間違いのないことだと思うのですが、しかし、其処に何一つの操作すらなくとも、その「異常さ」に実は十分共感できてしまう私には(その操作と効果が)どれほども実感できなかったこともまた付け加えておきましょう。私がこの物語をダラダラと冗漫なものとしか思えなかったのも、あるいは其処に原因があるのかも知れません。

 この映画には非常に印象深い場面があって、それは主人公の部屋を誰かしらが出入りする場面、この映画に何度か現れるその場面は、実は常に同じようなカットで撮られているのです。右手奥にドアがあり、左手には隙間なくレコードが並べられた壁、その通路をリビングからのミドルロングショットで捉える(つまり、その部屋に出入りする人間は必ずスクリーン向かって右側の一角にフルショットで現れます)という少し変わったもの、その執拗なカットが意図するのは、勿論、左手の壁に並んだレコード、例えば、ドアを開ける人間を正面から捉えるような普通のカットだと、通常、次のカットでは既にリビングに入り込んでしまっていますから(その間に通路のカットを挟むとさすがに無駄が多くなります)、確かに其処にも夥しい数のレコードが並べられてはいるものの、「異常さ」という意味では今一つなのです。主人公の恋人が荷物を引き取りに訪れる度にそのカット(壁のレコード群と対峙する構図)が現れるのなど、実に象徴的です。あるいは、その固定されたカットに、カメラすらその居場所がないような印象さえ受けてしまいます。

 公開初日、土曜日の午後、殆ど満席に近い混雑ぶりでした。尤も、公開規模がもっと大きくても何ら不思議のない類の映画ですから、このくらいは当然と言えるのかも知れません。映画館のロビーであろうが何ら臆することなく巨大なヘッドフォンを耳に当て、恍惚とその世界に埋没する「音楽オタク」の姿もチラホラ、彼らは果たしてこの映画に満足したのでしょうか?


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