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カサヴェテス、雑感2
ジョン・カサヴェテス映画祭(2)
2001年3月4日(キネカ大森2)

 記号の抛棄



 例えば「情感溢れる」などと評される映画があったとして、しかし、観客が其処に目撃するのは、人間の感情でもその内面でもなく、あくまでも俳優による演技、あるいは監督による演出に過ぎません。換言ですれば、我々がスクリーンに目撃するのは「感情」ではなく、あくまでも「感情表現」、既に記号化されたそれらを解釈し、元来不可視であるはずのものを忖度しているに過ぎないのです。従って、「情感溢れる映画」とは即ち感情表現に優れた映画のことであり、それが「記号」であるならば、「意味」との関わり合いの程度によってその価値を計ることもまた可能なのです。肝要なのは、スクリーンに在って優れた感情表現と「日常」のそれとはまるで違うということで、より日常的な、あるいは現実主義的とも言うべき感情表現が「情感溢れる映画」を演出するわけでもないということ、それは、スクリーンに在って優れた感情表現を「日常」に持ち込むと甚だ滑稽な事態が生じてしまうことにも明かです。また、演技あるいは演出が既に記号化されたものであるということで言えば、ブレヒトの提起した「身振り的演技」もその「記号性」が前提とされたもの、尤も、旧来の演技がおよそ人間の感情あるいは内面を表現するものであるのに対して、ブレヒトのそれは職業や社会的地位といった人間の外面を其処に示唆すべくのもの、何れにせよ、それらはスクリーンか舞台上に在って最も有効にその「記号性」を発揮すると言えます。

 カサヴェテスの「即興演出」が要請するのは、既に記号化された、観客との間に容易に相互了解を果たす類の演技あるいは演出の抛棄に他なりません。誤解があってはいけないので、一般にカサヴェテスの「即興演出」と呼ばれているものを(私に分かる範囲で)説明すると、それは先ず「アドリブ」とは無縁のものです。これは実に驚くべきことなのですが、例えば『フェイシズ』にはアドリブ(による台詞)が一切存在しておらず、すべては予め書かれた脚本通りの台詞のようです(カサヴェテス自身の発言を参照)。カサヴェテスが俳優に「即興」を許すのは、その与えられた台詞を如何に演じるかという場面に於いて、その自由を可能にするために照明は(俳優の移動が可能な場面)全体に満遍なく当てられ、それを追い掛けるカメラも焦点の深いレンズが用いられています。カサヴェテスによる指示(演出)は殆どなく、(彼が演じる人物が)如何に振る舞うべきかは俳優自身にその場で考えさせる、つまり「即興」です。そして、その「即興」を何度も重ねてゆく中で、真に相応しい表現を「発見」していくというのが彼の演出法、「即興」とは言っても、何らか偶発性に期待するようないい加減なものなどでは決してなく、むしろ、より厳密な「演出」が為されていると理解すべきが妥当です。カサヴェテスの「即興演出」とは言うなれば、感情表現の創造、あるいはその過程であると、既に記号化された在り来たりな演技、演出が入り込む余地など、何処にもないのです。

 今回上映された『こわれゆく女』の中に、ジーナ・ローランズを収監させるべく悶着する長いシークエンスがあります。やはり「即興演出」されたのであろうこのシークエンスはとにかく圧巻、ジーナ・ローランズの演技は言わずもがな、室内でありながらキッチンの隅で孤立するジーナ・ローランズを望遠で捉えるカメラ、母親と細君の板挟みで最後まで態度を決めかねるピーター・フォークの振る舞い、言葉で何かを説明するのなど殆ど意味がないのですが、とにかく、これを亭主が細君の収監を決断するまでの心理過程を捉えたシークエンスと理解するならば、これほど見事な演出はありません。確かに、このシークエンスをもっと短く、簡潔に表現する方法もあるのかも知れませんが、しかし、それはあくまでも状況の説明と容易に言葉に置き換え得るレベルの感情を伝達するに止まるものでしかなく、此処に目撃されたのと同様のそれを表現し得る「記号」など、何処にも存在してはいません。カサヴェテス映画に於ける一つのシークエンスが往々にして常識を越えた長さになるのは、既に記号化された表現(それは伝達機能には優れています)を借りて省略することをしない、要は「手抜き」をしないからです。既に記号化されている演技あるいは演出によるそれは、確かに、より多くのことを効率的に表現し得るのですが、しかし、例えば「物語」の差違などによって迂闊な観客は見過ごしてもしまうのですが、その表現自体はあくまでも型通りの、多少目の肥えた観客には容易に先が読めてしまう底の浅いものでしかないのです。カサヴェテス映画に現れる人物が時として観客を苛立たせもするのは、彼らが観客が期待する通りにはまるで動いてくれない故、保守的な観客ほど其処に記号を欲してしまうのです。

 既に了解可能な記号を何一つ身に纏っていない人物を、何らか普遍的存在として理解する、つまり、其処に在るジーナ・ローランズを他の何かに置き換えることにはやはり困難が伴ってしまいます。その意味に於いて、あるいは、それ自体が記号でしかないブレヒト的な人物とは対照的、彼らは記号を身に纏う以上の動作には決して至りません。従って一般化も容易、と言うより、そもそも彼らは「特定の個人」であることを予め抛棄しているのです。では、カサヴェテス映画に於けるジーナ・ローランズが最後までジーナ・ローランズでしかないのかと言えば、しかし、決してそうではなく、観客は其処に普遍的な何かを発見することになります。それは意図的に物事の表層をしか捉えないブレヒトのそれとは対照的、特定の個人を執拗に捉え続け、その内面深くまで時間を掛けて観客を導くことによって、其処に在る普遍的な、言わば「人間の本質」を観客の前に差し出すことに、もはや「ジーナ・ローランズ」という特定の個人は何処にも見つかりません。否、むしろカサヴェテスが実践したこの方法を効率化するためにこそ「記号的」な演技というものが発展したと考えるべき、その効率化を促したのは他でもない「制度」、例えば、2時間の枠の中に然るべき「物語」を押し込むためには、既に了解可能な記号を鏤めて観客の速やかなる理解を図ることこそが肝要と、其処に失われてしまったものを、我々はカサヴェテス映画の中に発見することになるのです。

 引き続き大森で「ジョン・カサヴェテス映画祭」、今回は『こわれゆく女』と『愛の奇跡』が上映されました。編集段階で酷い改竄がなされた後者は、カサヴェテスらしさをどれほども発見することが能わない不幸な作品、ハリウッドという強大な「制度」から逸脱を果たす契機となった作品としても知られています。ちなみに前者は、カサヴェテスの映画の中で私が一番好きな作品、これ以後のカサヴェテスは多少態度を軟化させていくことになります。それはともかく、前回も書いたように「映画祭」とは名ばかりの寂しい客入りだったことが影響してか、会場の規模が縮小されてしまうという憂目に、客席数が半分の劇場に移って丁度「満席」になっているというのも、やはり寂しい話です。


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