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スナッチ
監督:ガイ・リッチー
2001年3月10日(新宿アカデミー)

 記号の誘惑



 百年の物語を二時間で語り、パリとニューヨークをコンコルドより速く移動できてしまう「映画」とは、時間と空間を効率良く「省略」する装置に他なりません。ヒチコックの『ロープ』や、あるいはカサヴェテスのような天才のそれを例外として、大抵の物語映画は「省略される」ことによって漸く成立します。映画に於ける省略の代表は、言うまでもなくモンタージュ、空間と時間は文字通り「繋ぎ合わせられる」のです。モンタージュによる省略が可能なのは、観客が其処に省略された時間なり空間なりを、一つの約束事として予め了解している故、例えば、ある人物が「××に行く」と発言するカットの後、風景の違った別の場面にその人物がいるカットが続けば、其処が即ち「××」であることは容易に理解され得ることで、その間に、その人物が何らかの移動装置に揺られる場面を挟み込む必要すらありません。もし仮に、そういった(物語的な)状況説明を満足に果たし得る限りの省略が許されるのならば、大抵の映画は、本来の半分以下の長さにできてしまうはず、そもそも大抵の映画の「物語」など、所詮は二百字程度の「言語」に過ぎないわけですから。

 省略が多用されると「映画」はどうなるか、それが状況説明に支障のない限りに於いてなら、実は物語が損なうものなど何一つなくて、既述の通り、物語など所詮は何かが既に省略されている「言語」に過ぎないのですから、それも当然のことです。では、其処に損なわれるのは何か、「情緒」など、如何にも抽象的で思考停止な語彙なのですが、しかし省略が多用された結果、それが損なわれるのは間違いのないことです。感情表現あるいは心理描写の類が等閑になされた結果そうなってしまうのは当然として、重要なのは、過度の省略が「スクリーンに在るもの」を記号化してしまうということ、それは省略の程度に比例するとも言えます。では、記号化された、記号的な映像とは何か、それは(映像論的な意味に於ける)シニフィエとシニフィアンの関係に何らの余地もない映像のこと、映像が記号化すればするほどにシニフィエとシニフィアンの関係は強固になり、その連関は単純化、つまり「分かり易く」なります。要は、シニフィアンの有する情報量が減少し、その意味(シニフィエ)が極めて単純に、それは道路標識にあるような「自動車の図像」と「自動車の写真」に含まれる情報量に大きな違いがあるのと同じで、前者はそれが「自動車」と分かるギリギリまで表現が簡略化されたものであり、それが「自動車である」という以上の情報を有してはいません。映画に於ける省略表現もまた同様、それは最低限の状況説明を果たすための「記号」に過ぎず、(道路標識がそうであるのと同じように)情緒など期待すべくもないのです。

 不本意にも「漫画的」と評されてしまう映画があります。そう評されてしまうのは、その物語内容の「コミカルさ」にばかり理由があるのではなく、それが省略表現の多用された、およそ記号的な映像群であることにもその理由があります。以前「映画とアニメに関する覚書」と題した文章でも言及したのですが、アニメの映像は映画のそれと比べてシニフィエとシニフィアンの関係に余地がなく、即ちより記号的、「漫画的」な映画とは、つまり、アニメと同程度にしかそのシニフィアンが情報量を有していない映像群のこと、省略表現の多用がその情報量を減らしているのです。此処で言う省略表現とは、既述のモンタージュによるそればかりではなく、やはり以前、ジョン・カサヴェテスに関する文章でも言及しているのですが、俳優による演技、あるいは監督による演出がもたらす「記号化された感情表現」なども同様、意味を効率良く伝達し得る反面、些か情緒に欠けてしまいます。

 さて、この『スナッチ』という映画が「漫画的」である理由は以上の通り、しかし、別に悪い意味ばかりでもありません。そもそも映画が「情緒的」でなくてはならない理由など何処にもありませんし、その意味内容、即ち「物語」が簡潔に説明されて悪いわけもなく、むしろ「物語」のような単なる表層情報なら、決められた枠内により多く詰め込むことが可能に、実際、この映画は、その複雑な物語が、今どきではむしろ短くさえ感じてしまう「100分」という時間内に見事に収められています。また、此処に実現されているのは、勿論、単なる「省略」だけではなく、その表現が同時にまたこの映画を実にテンポの良いものに、一般にテンポの良い映像というものは、案外「同時複数ショット」の連続であることが多く、体感される「テンポ」の割には、実際には少しも時計の針が進んでいない、言わば「間延び」した映像であることが多いのですが、この場合は、映像のテンポの良さが実時間をも(そのテンポに見合うだけ)進めているという意味で、所謂「MTV的」な「雰囲気の押し付け」とは一線を画する、説話的機能をも十分に果たし得ているものであると、否、決して悪くはありません。些か複雑な物語が不足なく説明され、映像もそれなりに愉しめる良質な作品、但し「果たしてこれが『映画』なのか?」という問いには、その返答を留保するより他ありません。

 公開初日、第一回目の上映、やはりブラッド・ピットが出演しているせいか、開場前から短いながらも行列が、最終的には7割程度の入りでしたが、午前中の回ですから、まずまずではないでしょうか。ちなみに、この映画は決して「ブラッド・ピット主演」などではなくて、彼はあくまでも出演者の一人、「主役級」という表現が精々です。それにも関わらず、まるで彼が主演であるかのように思われてしまうのは、この映画の宣伝用のポスターなどを見ても分かる通り、そのような宣伝が為されている故、私は別に「ブラピ」が見たくて劇場に足を運んだわけでもありませんから、何を感じることもありませんでしたが、そのつもりで朝から行列を作っていた婦女子どもは肩透かしを喰らったのかも。所詮は商業主義の世の中、今さら何を言うつもりもありませんが。ちなみに、私は「マドンナの亭主」が観たくて劇場に足を運びました。
 尚、この類の映画(映像)が評される場合の常套句に「新感覚」というのがあるのですが、如何にも思考停止な表現ではないでしょうか?


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