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ギター弾きの恋
監督:ウディ・アレン
2001年3月17日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 機能不全の後始末



 これまで余り意識したことがなかったのですが、ウディ・アレン監督の映画には対話の場面に於ける「切り返しショット」が殆ど存在していないのかも知れません。勿論、旧作のすべて(のすべての場面)を明確に記憶しているわけでもありませんから、確信を持って何かを言える立場にもないのですが、曖昧ながらの記憶を辿ってみても、そもそも「切り返しショット」が用いられるような場面状況など何処にも、例えば、二人の人間がテーブルで向き合ってじっくりと会話するような場面など殆ど思い当たりません。差し当たって、確信の持てることだけに言及すれば、この『ギター弾きの恋』という映画には「切り返しショット」が一つも存在していません。では、この些か特異な「恋愛の物語」に於いて、男女の対話は如何にしてスクリーンに捉えられているか、と、否、何らか特別な技法が用いられているというわけでもなくて、大抵が「ツーショット」か「ミドルロング」で捉えられており、あるいは、場面によっては、台詞に合わせてカメラをパン移動させて擬似的に「切り返し」が実現されていたりもします。何れの場合にしても、男女が互いに向き合って言葉を交わすことなど殆どなく、男女は横並び立って身体は(観客に対して)正面を向けたまま顔だけを相手の方に向けていたり、また、特に相手を視るでもなく、何か別の動作をしながら言葉を発するという具合です。否、だからどうだという話ではまるでなくて、ただ単に、私が今さらながらにそのような「事実」に気が付いたという、それだけの話、ウディ・アレン監督の饒舌な脚本ではそもそも「切り返し」のタイミングを図るのも難しそうですし、あるいは、淀みなく流れるそれを断絶させないという積極的な意味もあるのかも知れません。

 この物語がフェデリコ・フェリーニ監督の『道』の引用であるなど、今さら指摘するまでもないことで、ラスト近くの主人公が泣き崩れる場面など、ショットそれ自体がその同じ映画から引用されています。アレン監督の「フェリーニ病」は言わずと知れた話、何を驚くでもないのですが、加えて、そもそも今どき何かに似ていない物語など何処にも存在しないと考えるべきが妥当、勿論、この映画のそれが「確信犯的」であるのは言うまでもないことなのですが、しかし、物語が似ているからと言って其処に何らか「映画的」な連鎖を発見するほどのことでも、此処に於ける彼の「フェリーニ病」を指摘すべきはもっと別のところにあります。それは、物語的にはどれほどの意味があるとも思えない「月」の場面、あの如何にも荒唐無稽な舞台装置こそが、アレン監督の「フェリーニ病」を端的に示しているのです。
 フェリーニ映画に屡々現れる荒唐無稽な装置は常に不完全で、その機能不全ぶりは常に嘲笑の対象に、完璧に機能する装置などフェリーニの映画には存在しません。不必要に身体が膨脹した女性に象徴されるように、それは其処に現れる人間に於いてもまた同様、そして、予め不完全に造られたそれら装置の機能不全は、あくまでも機能不全のまま、何かが「改良」されることなど決してないままに抛置され、物語を悉く宙吊りにしてしまうのです。フェリーニ映画の独自のリズム感は、あるいは、その至って無責任な態度がもたらしているとも、機能不全の装置を中途半端に抛り投げていく、その積み重ね、連鎖こそがフェリーニの「フィルム」と言えるのかも知れません。肝要なのは、その機能不全が確信犯的に仕組まれているということ、装置を機能させないことによって映画を(フェリーニ的に)機能させているのです。
 この映画の「月」が発揮する機能不全ぶりは正しくフェリーニ映画のそれ、しかし、此処に於ける機能不全は、あくまでも「場面」として切り取られるべきものであって、決して映画的な連鎖を引き起こすものではありません。従って、それをそのまま抛置するという「フェリーニ的無責任」が映画的に何らか機能することもやはりあり得ませんから、それ相応に「始末」されることになります。主人公が「月」を燃やすのは、つまり、そういうこと、それはフェリーニの映画には決して現れない場面でもあります。

 この映画が「疑似インタビュー」の体裁を借りている理由の一つは、『ハイ・フィデリティー』に関する文章でも書いているのですが、「天才」を主人公とする以上、どうしても客観的な視点が必要となるからに他なりません。そもそも天才にありがちとされる「奇行」というのは、あくまでも凡人の視点が確認する「表徴」であり、その主体を天才に置いては決して現れないものなのです。興味深いのは、アレン監督が捏造した人物があくまでも「二番目」の天才であるということ、彼の心酔する実在の天才をコラージュして創り上げられたそれは、正にこの映画それ自体の姿に重なります。控え目さも当然と言えるのかも知れません。

 公開初日の最終上映回、尤も、この日はレイトショーでも引き続き上映がありましたから、正確には終わりから2番目の回と言うべきなのかも知れません。入場制限がある劇場ですから立見が出ることはありませんでしたが、この日は何れの回も「満員札止」の盛況ぶり、実際、私も一つ前の回を観るつもりが、入場券を購入する既のところで入場制限の憂目に遭ってしまい、泣く泣く最終上映回の入場券を購入するに至りました。それにしても、ウディ・アレン監督の映画が満席になるなど、『ハンナとその姉妹』以後の作品はすべてロードショー公開時に観ていますが、個人的な経験としては初めてのことです。初日だけなのでしょうか? 尚、予告上映では既に同監督の次回作が、ワーカホリックぶりは健在のようです。


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