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ザ・セル
監督:ターセム
2001年3月24日(新宿ジョイシネマ2)

 不味い御菓子を



 CMやMTVの映像を退屈と感じてしまうのは、それらが、あくまでも何かに従属する存在である故、CM映像は商品に従属しMTVの映像は楽曲に従属、つまり、対象となる商品や楽曲が存在しなければ、それら映像もまた存在しない、その必要すら生じないということです。では、映画に於ける映像は何に従属するのか。それが何かを説明するために在るとするならば、大抵の場合、物語に従属していると考えることができます。勿論、映画に於ける映像は物語を説明、補完するためにのみ在るわけでは決してないのですが、此処では差し当たって映画に於ける「意味」の総体としての物語に従属するものとして、それ以外にも従属すべき何かが在るにせよ、少なくとも、物語映画に於いて、その映像が物語に従属しているのは間違いのないことです。語られるべき物語が存在しなければ、映画もまた存在しないのは言うまでもないこと、その関係はCMやMTVのそれに似ているのですが、しかし、物語など映画の何処を探しても見つけることができないということに思い至れば、其処に明らかな差異をもまた発見し得るのです。つまり、CM映像はそれが本来従属すべきをその中に捉えることができる、否、むしろ、商品それ自体を其処に映さないCMなど殆どないわけで、また、MTVの映像、即ちビデオクリップに於いては、その映像の背後にそれが従属すべき楽曲が流れ、その終わりと同時に映像もまた終わるという分かり易さ、対象は終始其処に在るのです。しかし、映画に於ける物語が何らかの実体を伴って其処に捉えられることなど先ずあり得ず、それどころか、そもそも観客が物語を発見するのは、スクリーンに幕が引かれてから漸く、つまり、CMが存在しなくても商品は存在するのとは違って、映画の場合、映像の連鎖がなくては物語もまた存在しない、あるいは、存在はしても、映像がそれを説明して初めて物語であり得る、そうでないものはそもそも「映画」ですらないという意味に於いて、其処にCMやMTVのように単純な主従関係を当て嵌めることなどできないのです。映像の連鎖が在って初めて物語が生起するという意味に於いては、むしろ物語が映像に従属するとも、つまり、両者は相互依存の関係にあると言えるのです。CM映像やビデオクリップ映像の「貧しさ」は、仮にそれが何かを創造するにせよ、その従属対象である商品や楽曲を越えることができない、その主従関係を決して覆すことができない、そうすることが予め禁じられていることにあります。

 しかし、その「決して覆すことのできない主従関係」は、それを逆手に取ると、何かを創造するつもりでいる人間に思わぬ「自由」を与えることになります。何を以てしてもその主従関係を覆すことができないということは、つまり「何をすることもできる」ということ、勿論、そうして出来上がったCMなりビデオクリップが商業主義の基準に照し合せて「優れたCM(ビデオクリップ)」かどうかはまた別の問題です。実際、今どきのビデオクリップやCMには矢鱈と抽象的な映像あるいは映像表現が網羅された「実験的」な作品が目立つのですが、しかし、それでもそれらが決して「難解」あるいは「無意味」と評されたりしないのは、商品あるいは楽曲との決して壊れることのない主従関係が其処に絶対的な「意味」を与えている故、その映像だけを切り取れば明らかに「無意味」なものでも、その映像の最後に商品名が示される、あるいはその背後に何らかの楽曲が流れていれば、それを観る人間は立所にその「意味」を理解し、その存在を「許す」のです。その映像が如何に実験的、野心的であろうとも、予め与えられた「意味」にその存在を漸く許されているという一点をして、その創造の姿勢を「怠惰」と断じることができます。彼らが如何に「怠惰」であるかは、彼らが「映画」という、決して「怠惰」を許さない場面に紛れ込んできたときの無惨な失敗にも明らかです。

 既述の通り、映画に於ける映像と物語の関係は、CMやMTVのそれらとは違って、決して絶対ではなく、むしろ、映像が物語を創造していく必要が、この時点で「彼ら」は既に致命傷を負っているのですが、しかし、映像が物語を構築する術など、物語映画の歴史が既に百年を越えている昨今、巷間の「映画好き」の類でも十分に心得ているわけで、彼らとてそれは同様、彼らの物語に従属した映像、物語を創造しているつもりの映像が如何にも保守的で退屈なのは、彼らの才能が巷間の「映画好き」のレベルと大差のないことの何よりの証左と言えます。この『ザ・セル』という映画を時間軸に沿って三分割した一番目と三番目のそれらは、間違いなく物語に従属した映像群なのですが、其処に用いられている、例えば、一番目と三番目の両方で些か得意げに駆使されている「カットバック」など、ハリウッドの職業監督でさえ赤面してしまうのではないかと思われる保守性が垣間見られ、何の芸もないどころか、物語を説明することすら上手くできないようで、物語を破綻に至らせています。これは、この映画の主眼が何処にあるかということなどとはまるで関係がなく、単に「才能」の問題、仮にその主眼が別の場所にあるにせよ、物語を破綻させる、下手糞に撮る必要など何処にもないのです。

 ハリウッドに雨後の筍のように出現したCM/MTV出身の新人監督(あくまでも「ハリウッド」のそれ、従って、『スナッチ』『キング・イズ・アライヴ』の監督は此処での言及とは関係がありません)の映画が退屈だと感じるのは、「物語を語る」という物語映画の基本に於いて目新しいものなど何もなく、むしろ「保守的」でさえある故、理由は至って簡単、彼らには「才能」がないのです。それでも、それが彼ら自身なのか、あるいはプロデューサーなのかは知りませんが、彼らの「才能」を無駄にしないよう、映画の中に必ず彼らがCMなりMTVで培ってきた技術を発揮できる場面が設けられています。普段はテレビしか観ていないような連中が思わず身を乗り出す場面がそれ、物語は其処で一旦「停滞」し、何ものにも従属し得ない、それ故に「無意味」でしかない、俗に言う「雰囲気だけの映像」が垂れ流されるわけです。そういった場面に大抵当節流行のロック音楽など流されているのは、ビデオクリップがそうであるように、その映像が従属する何かを其処に与え、それが「無意味」に堕することを回避するための策に他なりません。物語に従属する保守的で退屈極まりない映像と、何ものにも従属し得ず、物語の停滞を余儀なくする空疎な映像、彼らが「映画」のつもりで我々に差し出すものなど、所詮はその程度のものです。やはり彼らの一人に分類される監督による『チャーリーズ・エンジェル』という映画がそれなりに面白いのは、(それ以外の理由もあるにせよ)其処にはそもそも物語など存在しない故、あるいは単に「馬脚を現す」要素が其処になかっただけなのかも知れません。また、此処では予め対象から除外している『スナッチ』という映画が、それらとは明らかに一線を画する映画であると言えるのは、他でもない「物語を語る」という場面に於いて、実に野心的な試みが為されている故、物語を停滞させることもありません。

 さて、CGが降らせる桜吹雪を美しいと思うかどうかなど、結局は各々の主観に拠らざるを得ないことなのかも知れませんが、少なくとも、私の精神世界にそんなものを降らせるのだけは勘弁願いたいところです。明らかなのは、その「二番目」の部分が、映画的にまるで「無意味」な存在であるということ、あるいは、それを映画の枠内に取り込むことによって、差し当たって「無意味」であることを回避していると、好意的に解釈すればそうも言えるのかも知れません。つまり、此処に於いては、映画それ自体が、CMに於ける商品もしくはMTVに於ける楽曲と同等のものとして「利用されている」と見做し得るわけで、否、これほど莫迦げた話もありません。物語映画という「意味」に予め依拠しなくては成立しないものなど、商品名が記されないアヴァンギャルドなCM映像同様に、「無意味」とは言わないにしても、少なくとも、商業主義の世の中ではまるで「無価値」な存在、結局、これは「物語を語る」という才能に足りない人間が、映画という予め与えられた「意味」を悪用して、2時間にも及ぶCMかビデオクリップを制作したということ、あるいは、この映画は誰が喰べても不味い御菓子をアヴァンギャルドな映像で宣伝するテレビCMのようなもの、御菓子を不味くした張本人がそのCMを作っているのですから、やはり「莫迦げた話」と言うより他ありません。

 公開初日の午後、9割方は埋まっていました。館内が暗くなってから入ってきた後ろの席のカップルがガサガサと終始五月蝿くて、何をやっているのかと思ったらロッテリアのハンバーガーなど喰らっていました。最近は携帯電話が鳴ることはさすがになくなったのですが、こういうのは相変わらず、女の方は腸を巻き上げる場面でで気持ちが悪くなったのか、ドタドタと中座する始末、喰い過ぎなんですよ。


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