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星降る夜のリストランテ
監督:エットーレ・スコラ
2001年3月25日(シネマ・カリテ3)

 無関係な言葉



 稀に「アナタの一番好きな映画は何ですか?」と問われることがあるのですが、ある程度以上の本数を観ている良心的な映画好きが大抵そうであるように、私もやはり返答に窮してしまいます。何でも直ぐに順序を付けたがる世の中の風潮に反撥しているというわけではなくて、単にその範囲が広過ぎる、一口に「映画」といっても色々なジャンルがありますし、また「好き/嫌い」を分けるものが作品の優劣や世間一般的な評価と必ずしも一致するものでもないのは言うまでもないこと、要はその設問自体が些か莫迦げているのです。例えば「ヴェンダース監督の黒白作品の中で一番好きな映画は?」と問われれば、間髪を入れず『都会のアリス』と返答するでしょうし、「フェリーニを除くイタリア映画の中で一番好きな作品は?」という設問なら、多分少し考えてからエットーレ・スコラ監督の『あんなに愛しあったのに』の名前を出すでしょう。しかし、だからと言って、『都会のアリス』や『あんなに愛し合ったのに』が、私にとって「その程度の映画」というわけでは決してなく、それらを導いた設問ならそれらの名前を出し易い、大仰に言えば、良心の呵責を回避できるということなのです。

 私個人に纏る話をいつまでも続けていても仕方がないのですが、別に「フェリーニを除くイタリア映画の中で」という条件がなくては名前を出せないわけでもない『あんなに愛しあったのに』という映画、これが好きなのには色々と理由があって、例えば、私がその映画を観る直接の切掛となったのが、(私がその映画を観た)当時「早稲田文学」という雑誌に連載されていた梅本洋一の「映画=日誌」の文章で、其処に具体的に何が書かれてあったのかなど遠の昔に忘れてしまったのですが、その文章に甚く感銘を受けたのは間違いのない話、否、それは、その映画の内容とは直接には関係のない個人的な体験に過ぎないのですが、それから十年も過ぎた頃になって始めたこのサイトの名前に思い至れば、それが私にとってそれなりに重要な体験だったと理解してもらえるのかも知れません。その映画自体が素晴らしいのは言うまでもないこと、良質なフィルム体験とは往々にして日常の記憶を連れてくるという話です。

 我々の日常は「言葉」に溢れているのですが、しかし、各々にとって直接的に関わりのある言葉などほんの僅かであるに過ぎません。例えば、電車に乗れば向かいのカップルや隣のサラリーマン達の会話を耳にすることができるのですが、しかし、彼らの言葉に注意深く耳を傾けてみたところで、彼らが愉しそうに言葉を交わすその「雰囲気」を共有することまではできません。確かに、記号としての言葉の「意味」を理解することは十分に可能なのですが、彼らの言葉に含まれる「それ以上の何か」を感得することは不可能、其処に於いて理解される「言葉=記号」の意味などあってないようなもので、つまりは「無関係な言葉」ということになります。注意深く耳を傾けていてさえそうなのですから、ただ耳に流れ込んでくるそれは殆ど「音」のレベル、あるいは、誰かとの会話に夢中になっていれば、何一つの「音」すら耳に届かないのかも知れません。私にとって何らか「関わりのある言葉」とは、私が直接(あるいは電話などで)誰かと交わす言葉か、もしくはテレビなどが流す万人向けの「情報」としての言葉か、煩いくらいに言葉の溢れるこの世の中に暮らしながら、しかし、ただそれだけということになります。

 例外があるとすれば、それは「物語」に於ける言葉、其処に於いては、まるで知らないどころか、実在すらしていない人間同士の会話が「雰囲気」を連れて我々の耳に届けられることになります。それは物語に付随する会話ですから、実は当たり前の話で、先程のサラリーマンの会話が無関係なものでしかなかったのは、其処に付随しているはずの物語を偶々電車に乗り合わせたに過ぎない人間がまるで了解していない故、物語を了解してさえいれば、言葉が記号に堕したりはしないのです。とは言え、しかし、其処で交わされている会話が(それを耳にする、あるいは読む人間にとって)無関係であるという事態に何ら変わりはなく、直接誰かと言葉を交わして愉しい時間を過ごすというのとは、明らかに体験の質が異なります。

 この映画と対峙する観客は、其処に於いて、そんな「無関係な言葉」を複数体験することになります。それは物語に付随するというより、むしろその「言葉」から物語を発見しなくてはならないという意味に於いて、通常の物語のそれと比べて格段に厄介な代物であるとも言えます。何故「物語を発見しなくてはならない」のかと言えば、それは既述の通り、それを発見しない限りに於いては、その言葉が単なる「記号」のレベルを脱することなく、いつまで経っても「無関係な言葉」であることを止めないからです。電車に乗り合わせたサラリーマンの会話より余程熱心に耳を傾けるのは、其処に(興味深い)物語が隠れていることを予め知っている故、「映画を観に行く」という我々の動作が即ちそれに同義なのです。結果として、我々が其処にその言葉の数だけ物語を発見することになるのは言うまでもないことです。

 映画館を後にした我々は幾つかの「物語」を持ち帰ることになるのですが、映画を振り返って、其処で交わされていた「言葉」が、では、我々との間に直接的に何らかの関係を果たし得たかと言えば、決してそうではないことに思い当たるはず、その映画を一緒に観た誰かとその映画に付いて交わす言葉とは、やはりまるで違うものなのです。我々に語り掛けるわけでもない「無関係な言葉」は相変わらず無関係なまま、それは、例えば、途中で居眠りでもして幾つかの言葉を見失ってしまうと、それ以外の言葉も単なる記号でしかなくなってしまうことにも明らかで、言葉それ自体はやはり何処までも遠いのです。

 しかし、其処で我々がまるで無意味な体験をしたわけでもないのは言うまでもないことで、それは即ち「物語」を持ち帰ったということを一つの証拠として、つまり、「無関係な言葉」は其処に物語が発見されたとき、言葉本来としての機能を十全に果たし、我々との間に漸く関係を構築するに至るのです。肝要なのは、物語が言葉を介するのと同時に言葉もまた物語を介するということであり、発見された物語は同時にまた言葉を発見するということ、我々と直接的に関係を果たす言葉とは、つまり、その「物語によって発見された言葉」なのです。しかし、それは映画館の暗闇に明滅する光の如く、あくまでも体験されつつある瞬間を我々に差し出すに止まり、後にはただ物語を残すのみ、我々は物語を発見するために映画館に足を運び、そして、物語によって発見された言葉を其処で体験するのです。

 さて、物語あるいは言葉を発見するという特権的な立場になどそもそもないこの映画の中の人物群は、自らに「関係のある言葉」に熱心に耳を傾けつつ「無関係な言葉」を遠く耳に残すという、我々の日常と同様のそれを其処に再現しています。しかし、この映画にはそれら一切の言葉が抛棄される瞬間があり、その瞬間に於いて唯一(その場面で長回しのカメラが切れ間なく場面を一巡りするという動作が示唆するように)彼らは何かを共有し、一つになります。それは、言葉が抛棄されることによって、それまで厳然として在った「関係/無関係」の構図が消滅するということを示唆しています。言葉は人間を繋ぐと同時にまた隔てもするということ、世の中に言葉が溢れれば溢れるほどに、また孤独を深めて往くのが人間というものなのかも知れません。

 公開から既に何週か過ぎた日曜日の午後、小さな劇場の半分が漸く埋まっていた程度でした。『隣の女』や『日曜日が待ち遠しい』といったトリュフォー晩年の作品でヒロインを演じたファニー・アルダンが単なるオバサンになっていたのは我慢するとしても、『あんなに愛しあったのに』のステファニア・サンドレッリが如何にも「イタリア的」なオバサンに変じていたのにはさすがにガッカリでした(ベルトリッチの『魅せられて』にも出ていたようなのですが、気が付きませんでした)。やはり『あんなに愛しあったのに』に出演していたスコラ映画の常連でもあるヴィットリオ・ガスマンはこの映画の撮影の暫く後に他界しています。尚、この映画はイタリア映画の伝統に則って台詞はすべてアフレコ処理されており、ファニー・アルダンやマリー・ジランのようにイタリア語の話せない人達に至ってはアフレコどころか吹替、撮影中は口を動かしながら何を喋っていたのか知りませんが、そんな仕事は愉しいのでしょうか、俳優として。


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