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人間の屑
監督:中嶋竹彦
2001年4月1日(シネマスクエア東急)

 その段取りの良さが



 映画が本質的に第三人称のメディアであるのは、そもそも何者でもない「カメラ」の視点を借りて観客が其処に何かを目撃するという動作にも明らかなことで、それは、第三人称で書かれた小説にも似ており、神の俯瞰の如き作家の視点が即ちカメラのそれに同じであると言えます。小説に第一人称の視点によるものがあるように、映画にも、確かに、厳密に第一人称の視点でのみ語られるものは存在し、近年の例では『視線のエロス』などがそう、しかし「第一人称表現が用いられている」という単なる方法論に関わる一つの事実だけをして既に全体から差別されてしまうことからも分かるように、それはやはり特異な例であるに過ぎません。他方、小説に於いては、実際の比率がどの程度なのかは知りませんが、第一人称によって語られるものなど別に珍しくもなく、勿論、それを以て何らか特別視されてしまうこともあり得ません。「私」にとって「私という存在」は「言語」であるに過ぎない、つまり、他者の視線に於いては一個の「表象」として現れる「私」も、しかし、「私」が「私」を意識するそれ、即ち「自我」に於いては、あくまでも「言語」によって何らかが構築されているに過ぎず、決して「表象」として何かが現れたりはしないということです。映画であれ小説であれ、第一人称表現によって語られるそれに於いては必然的に「私(の表象)」の不在が余儀なくされてしまうわけで、従って「私」に関する情報は、基本的に「私」と対峙する他者による言葉を待つか、もしくは、独白の形式を借りて其処に「自我」を開示するか、その何れかしかないということになります。映画が主に表象のメディアであり小説が言語のメディアであることに思い当たれば、そのそれぞれに於ける「自我」の立場も明らかになるわけで、つまり、(第一人称表現による)小説に於いては其処に「私」を補完することが容易なのに対して、映画に於いては困難が伴ってしまうということ、「私」という表象の不在は、映画にとって致命的なのです。

 厳密に第一人称の視点のみによって書かれた小説は、あくまでも「私」の認識し得る範囲内の事象(もしくは自我)しか其処に現れないという意味に於いて、比較的「現実主義的」であると言えるのかも知れません。人間に内在する「不安」とは、不可視あるいは不可知をその根拠とするわけですから、実際に「見えない」あるいは「分からない」という事実が其処に体験されるものの方がより現実的なのは当然です。ただ、第一人称の視点によって書かれた小説を読む人間が、では、厳密にその形式に則って読む、つまり、映画のそれのように読者が「私」の視点を唯一の拠所として其処に何らかの想像力を働かせるのかと言えば、しかし、決してそうではなく、これは読者の「特権」とでも言うべきか、映像として(各々の頭の中で)再構築されたそれはむしろ第三人称の視点に近いというのが実際です。第一人称の視点による小説が、他でもない第三人称のメディアである映画に置き換えられても然程の違和感を覚えないのは、つまり、そういうこと、読者によって予め映像化されたそれが、既に第三人称の視点に置き換えられているのです。

 従って、映画としては当たり前の第三人称の視点を以て再現された『人間の屑』は、その意味に於いて、何らの違和感を覚えるものでもなく、もし仮に、この映画が原作とは些か乖離した印象を受けるにしても、それは原作が全編「語り」によって構築されているからではありません。例えば、主人公が縁側で猫と戯れる場面、あくまでも私個人の体験を持ち出すしかないのですが、私が原作を読んだ時に想像したそれとどれほども掛け離れてはおらず、むしろ符合する部分の方が多いくらいです。それは、他の場面、あるいは人物像などに於いても同様、違和感を覚えた部分があったとすれば、それは些かカリカチュアされ過ぎていた「パンク」のそれ、確かに、観ていて少し恥ずかしくもなりました。しかし、それはあくまでも「その程度」のこと、此処に於ける原作小説との乖離はそれとは別の部分に、私の指摘するそれは、多分「無理な注文」の部類なのかも知れません。

 小説に於ける言葉の連鎖が、結果として其処に物語を生起するように、映画に於ける映像の連鎖もやはり物語を生起するのは言うまでもないこと、しかし、言葉にせよ映像にせよ、それだけのために存在するわけではなく、また、読者や観客もそれだけを期待しているわけではありません。簡単に言えば、此処に於ける、つまり、町田康の言葉は「物語を生起する」以外の意味合いが大きく、むしろ「それ自体」として機能するものであるということ、小説が映画に置き換えられる場合、大抵、結果として其処に現れる「物語」を媒介としてその「置き換え」が実現されるに過ぎず、「言葉それ自体」の有する機能が「映像それ自体」の有する機能に正確に置き換えられたりはしない、其処まではさすがに期待できないわけで、従って、取り分け「言葉それ自体」の有する機能が発達した此処に於いては、どうしても不完全ならざるを得ないのです。例えば、主人公が自身の過去を回想する場面、(これは映画では当たり前のことなのですが)先ずは主人公のクロースアップを捉えてからフラッシュバックに突入するという、その段取りの良さが、「改行」すら体験されることのない澱みのない「語り」の中に唐突に紛れ込んでくる原作小説のそれと比べて、印象としてどうしても違和感が、確かに、そのような原作小説の「雰囲気」を再現すべくそれなりの試みが為されてはおり、他でもない主人公による「語り」などがその典型と言えるのですが、しかし、其処に再現された「言葉」はどうしても演劇的な過剰を纏ってしまい、些か煩わしいものにも、単純な話、「読む」のと「聞く」のとではどうしても印象の違いが、否、町田康のそれの場合、むしろその印象の差異が少ない文章なのですから、もう少し「普通」に語らせた方が印象を再現するという意味に於いては成功したのかも知れません。このような例は枚挙に遑がないのですが、総じて、もっと大胆に換骨奪胎を試みて、中途半端に原作小説との比較をされてしまうようなものではなく、もう少し映画的な試みが為されても良かったのではないかと、例えば、「貯金箱を盗んだつもりが中身は碁石だった」という物語状況の説明など、実に映画的な「省略」によって為されており、それはそれで非常に素晴らしいわけですから。あるいは「町田康の小説を映画化するのは難しい」と、やはり「無理な注文」なのです。

 残念ながら、私は既に原作小説を読んでしまっていたので、これを純粋に映画として観ることできなかったのですが、映画だけを観た場合を想像するに、これはおそらくは相当に「阿房らしい映画」のはず、否、そもそもが阿房らしい物語が阿房らしい語りによって構築されたものなのであって、既述の通り、原作小説がそうであるほど物語を構築する要素(小説に於ける言葉、映画に於ける映像)が阿房らしいわけでもありませんから、映画のそれは些か中途半端、「阿房」というより「間抜け」という表現が適当なのかも知れません。否、決して悪い映画ではありません。

 公開二日目、日曜日の午後、予想された通り劇場はガラガラ、特別に話題性があるわけでもない邦画など、今どきそんなものです。話題性ということで言えば、芥川賞作家の原作小説の映画化であるというのが一番のそれなのでしょうが、昨今に於ける芥川賞の権威を云々する以前の問題として、活字媒体一般が今どき提供し得る話題性の限界を考えた方が良いのかも知れません。そう言えば、パンクス風の若者がチラホラ、そのような風体を好む人間の常として、随分と生真面目そうな感じでした。


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