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あの頃ペニー・レインと
監督:キャメロン・クロウ
2001年4月7日(シネマ・カリテ2)

 華麗なる低空飛行



 あらゆる「評論」とは論者によって体験された何かを言語として再構築する作業に他ならないわけですから、歌詞を研究するということでもなければ、本来的に言語ではない音楽を論評するのは非常に難しいことなのだと思います。例えば、映画の場合なら、これも本来的には決して言語などではない(台詞を例外として)のですが、しかし、「物語」という、言語以外の何ものでもないものにそれを一旦還元してから論じることは世間一般的に許容されているようで、退屈な映画評とは得てしてそういうもの、本来言語ではないものを勝手に言語に置き換えて、それを言語で論ずるという、発想として非常に安易なのです。それはともかくとして、決して言語になど置き換えることのできない音楽というものは、実際、如何に論じられているのか、それ自体を言語化することが能わない以上、其処に於いては「形容詞」が重要な意味を持つことになります。「激しいリズム」とか「美しいメロディー」とか、書いていて阿房らしくもなるのですが、「的確な形容詞」などというものがこの世の中に存在するのかどうかは別として、結局は、如何に豊富な形容詞を有しているかが論者の評価を分けるようなところもあって、実際、この映画の中でもそのようなことが示唆されています。それを裏付けるのは音楽的な知識と(音楽とは直接には関係のない)文才、スティル・ウォーターという大して有名でもないバンドに関する知識を既に有していることと「飛び級」ができてしまう本来的な聡明さ、この映画の主人公にあるとされている「才能」も、結局はその両者が説明されることによって辛うじて其処に成立しているに過ぎず、否、商業主義の場面に於ける評論など、所詮は「はったり」に過ぎないと言ってはミもフタもないのですが、しかし、此処で取り沙汰されている「才能」というものが、終には正体不明のまま抛置されてしまうのは如何ともし難いところ、彼が苦心して書き上げたのは、単なるゴシップ紛いの「同行記事」でしかないような気がするのですが…。何れにせよ、此処に於ける彼の役割はこの映画に一つの視点を提供することに他ならず、何よりも肝要なのは、彼がアルコールやドラッグ、あるいはセックスとすら無縁の存在であり、彼とその世界の接点が唯一「音楽」であるということ、それは、このような場面に於ける「子供」の常として期待される「純粋さ」のそれに相違なく、その純粋さによって虚飾が看破されるのも、やはり在り来たりな事態であるに過ぎません。

 さて、主人公の姉はスチュワーデスになることによって保守的な家庭から解放され、ペニーレーンは飛行機のアナウンスを引用することによって場面への参加を果たし、バンドにとっては飛行機での移動が一つのステイタスシンボルに、そして、その機内の場面がこの物語に於いて比較的重要な意味を持つことからも分かるように、此処に於いては「飛行機」という装置に色々な意味が託されているように思われます。激しく揺れる機内でメンバーの一人が突然「ペギー・スー」を歌い始めることにも示唆されているのですが(『コン・エアー』というやはり飛行機に関する映画では、同様の場面でレーナード・スキナードが引用されていました)、元来、ロックバンドと飛行機というのは余り相性が良くない取り合わせで、此処に於いても、メンバーが颯爽と飛行機に乗り込む場面からして(それが成功への一つのステップであるにも関わらず)スクリーンには既にある種の不安が予感されています。「希望」でもありまた同時に「不安」でもあるこの装置に象徴されるものなど容易に知ることができるのですが、ただ、希望にせよ不安にせよ、それを「飛行機」という一個の装置に託してしまうことによって、それ以外の場面からその両方を排除してしまう、その態度が留保されているのは些か無責任であるようにも、つまり、ドラッグや破壊活動では決して予感されなかったものが「飛行機事故」という状況を借りて漸く其処に予感されるというのがこの映画のカラクリ、確かに、「希望」もまたその装置にしか託されなかったことによって、無責任に時代を賛美するような愚が為されることもないのですが、しかし、その装置は、やはり核心への言及を巧妙に回避するために設けられた「バイパス」のようなものであり、其処にすべてを流してしまった後に残るのは、実際この物語がそうであるように、空疎極まりない表層の垂れ流しに過ぎないのです。例えば、此処に於いて確信犯的に上滑りさせている「リアル」や「ホーム」という言辞にしても、それが「錯覚」に過ぎないことを執拗に指摘しつつも、しかし、その幻想が体験させる挫折が描かれることは決してない、否、それは、やはり「飛行機事故」という「現実」が幻想を裏切ることでしか此処には現れ得ないのです。逆に言えば、一連の「飛行機」の主題が其処に何かを示唆し得ている故に、この映画は辛うじて「最低」であることを免れているとも、「誰も傷付けない映画」の華麗なる低空飛行です。

 同様にロックバンドを扱った『スティル・クレイジー』という、やはり些か懐古趣味的な映画がそんなに悪くもなかったのは、手持ちカメラで捉えられた移動バスの場面が何よりも魅力的だった故、この映画にもやはり同様の場面が登場するのですが、しかし、まるで小学生の遠足バスか何かのように突然皆で歌い出す(しかもシラフで)というのにはさすがに呆れてしまいました。

 公開から既に何週か経っている土曜日の午後、一応は満員だったのですが、そもそもが100人も入らないような小さな劇場の話ですから、これが興行的な成功を意味しているのかどうかはよく分からないところです。
 この映画の中に「(ローリングストーン誌が)『レイラ』を酷評してクリームを解散に至らせた」という、この類の音楽に多少明るい人ならば簡単にその間違いを指摘できる台詞があるのですが、その間違いはさておくとして、今では名盤と評されているデレク・アンド・ザ・ドミノスの『レイラ』の発表当時の評価が散々だったのは事実のようで、当時の「ミュージック・マガジン」などを読むと、彼の湯川女史が「クラプトンのボーカルは下手糞だ!」とか酷評しているのを発見することができます。


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