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ベーゼ・モア
監督: V・デパント & C・トラン・ティ
2001年4月14日(シネマライズ1)

 無知の涙



 暴力あるいは性、映画が倫理を問われる場面に於いて取り沙汰されるのは、それ以外の何か、例えば物語などではなく、専らその「描写」です。では、映画に於いて「描写」とは何か、「描写≠物語」であるのは言うまでもないことで、物語との関係で言えば、差し当たってそれを語る手段の一つとでも、しかし、其処に「目撃されるもの」としてのあらゆる「描写」が物語を説明する上で必要不可欠かと言えば、決してそうではなく、必要に応じて省略は可能、映画が「省略の芸術」とも呼ばれる所以です。何が省略されて何が省略されないのか、あるいは何故省略の必要があるのか、物語をある一定の時間枠内に収めるために、物語にとって不必要なものが省略されて必要なもののみが残される、当たり前の話です。しかし、必ずしもそうであるとばかりは言い切れないのは、それ以外の基準が省略を要請することも決して珍しくない故、勿論「倫理」もその一つです。親しげな男女が寝室で熱い抱擁を交わして場面が暗転、次にどんな場面が現われようとも、寝室でその後何が起こったのかは、体位までは特定できないにせよ、子供にでも想像がつくはず、映画に於ける省略の典型と言えます。これは一見して物語の要請に従って省略が為されているようにも見えるのですが、しかし、そうではなく、此処では「熱い抱擁」としか書きませんでしたが、その場面での動作如何によってはその後二人の間に何も起こらないであろうことを観客に予感させることもまた可能、あるいは、その後の場面が省略されていること自体が「何かが起こった」ことを暗示しているとも、それはつまり「セックス=省略されるもの」という暗黙の了解が成立しているということ他ならず、既に習慣化された倫理の要請とも言えます。直接的な「描写」が「現実的」で「分かり易い」のは言うまでもないこと、従って、物語状況を説明するという意味に於いて、場合によっては、その方が余程時間を節約できるわけで、倫理の要請は時として物語の要請に対立することにもなります。確かに、そうした数々の要請が「演出」の進歩を促し、映画のみならず、多くの表現媒体を「芸術」の域にまで高めたとも言えるのですが、しかし、其処に於ける間接表現の過剰が、物語をより「物語的」にし、少なからずの「現実感」を遠ざけてしまったのもまた事実です。

 この映画の倫理が問われるのは「描写」ではなくむしろ「物語」に於いてであると、そんなふうに考える人もいるのかも知れません。二人の若い女性が無目的な殺人と快楽追及のセックスを繰り返す「逃避行」ですらない旅の物語、確かに「反=倫理的」な物語と言えます。しかし、其処に語られる殺人の「数」なら、「戦争映画」など持ち出さないまでも、例えば「西部劇」でも十分に太刀打ちできますし、あるいは、これまでに数えるのも億劫になるくらいの女性と快楽追及のセックスを繰り返してきたはずのボンド中尉が、では、その倫理を問われたことが一度でもあったかと言えば、勿論、そんなことはありません。確かに、此処に於ける「目的」あるいは「動機」の不在は脅威の対象として十分なもの、観客は、例えば「殺人」のような、スクリーンに目撃される「動作」そのものから物語との距離を測るのではなく、その「目的」や「動機」からそれを測る、つまり、嫉妬や物欲、あるいは国家レベルの大義名分に共感したり不快感を覚えたり、其処に(虚構に過ぎない)物語との「関係」を発見するのであり、その結果として示される「動作」に対しては予め一定の距離を置くもので、あるいは、その距離があるほどにも「娯楽性」が生まれるとも言えます。此処に於けるその「距離を測るべき」の不在は、従って、本来距離を置くべきその「動作」との直接的な対峙を要求することにもなり、結果的に観客の日常に於いて「殺人」や「快楽追及のセックス」が「反=倫理的」であるのと同じ理由から、スクリーン上のそれらに対してもより厳しい視線を向けざるを得なくなるのです。それはまたこの映画に「娯楽性」が欠落しているとされる所以でもあります。
 尤も、その「動機の不在」が脅威である一方、この映画には案外親切なところも、比較的丁寧に為される「前置き」が彼女らを観客の前に「特定の個人」として差し出すというのがそれ、そのことによって本来存在しないはずの「動機」や「目的」を彼女らの存在そのものに負わせてしまうことが可能に、つまり、観客は予め彼女らとの間に距離を置いてしまうのです。もし、その「前置き」すらもなく、彼女らがあくまでも「不況に喘ぎ、まるで未来を見出せないフランスの若者一般」として描かれていたならば、言い逃れの余地などもはや何処にもないのですが、此処ではしかし、決してそうではありません。何れにせよ、それが「物語」に過ぎなければ、この映画が「反=倫理的」の烙印を押されることはあっても、決して上映が制限されるまでには至らないはず、関連記事を参照する限り、フランス本国で取り沙汰されていたのも、あくまでも「表現の自由」であり、「思想信条の自由」ではないのです。

 一般にこの映画は「娯楽性」に足りないと評されているようなのですが、しかし、私はそうは思いません。物語だけをみれば『俺たちに明日はない』のようですし、実際、映画の中でその類が模倣されてもいます。また、主人公の不在、あるいは旅の終わりを以て物語を閉じるのなど典型的な娯楽映画のそれ、其処に至るまでの些か「上出来過ぎる」物語にしても、否、細かいことを言えば、彼女らの拳銃の構え方一つを取ってみても、十分にこの映画の「娯楽性」を指摘し得るのです。そして何よりも、彼女らが殺人なりセックスに「娯楽」を発見しているのですから、否、決して冗談などではなく、やはりこれは立派な娯楽映画なのです。
 これは彼女らの動作に「動機」あるいは「目的」を発見できない理由の一つとも言えるのですが、彼女らのその「反=倫理的」な動作に対峙する存在が明確には示されてはおらず、つまり、此処にはそもそも「対立の構図」が存在していないということ、そのこともやはりこの映画から「娯楽性」を遠ざけています。例えば、『俺たちに明日はない』に代表される「ニューシネマ」に於いては、其処に明確な何かが現われるか否かは別として、予め意図されたものとして明らかな「対立の構図」が存在し、それ故にこそ、彼らはその死を以て其処に「抑圧された自由」を体現し得たのであり、「アンチ・ヒーロー」という名の「ヒーロー」であり得たのです。確かに、周到に説明される彼女らの劣悪な環境、言うなれば「フランスの現実」を彼女らの「動作」の理由としてしまえば、其処に如何にもニューシネマ的な「対立の構図」を発見し得るののかも知れないのですが、しかし、この物語の一連の「結論」を見る限りに於いては、そのような「安易さ」はむしろ拒絶されているようにも、些かの悪ふざけが加味されたこの物語の結末は、それが「物語を終わらせる」という当たり前な機能を果たしている以外、しかし、徹底的な「無意味」に堕しています。ただ、そうやって「娯楽性」が拒絶されつつも、しかし、彼女らが観客に示す「身振り」は、やはり「ヒロイン」のそれ、ひたすらに表層を漂うその遊戯性は、ニューシネマというより、むしろ徹底した娯楽映画、例えば『チャーリズ・エンジェル』のそれに近いとさえ言えます。

 この映画同様に、実は女性によるセックスと暴力の物語に他ならないその『チャーリーズ・エンジェル』というハリウッド映画とこのフランス映画を(天と地ほどにも)分けているのは、彼女らの動作(即ちセックスと暴力)を生む「動機」あるいは「目的」、そしてその「描写」のされ方の差違に過ぎません。つまり、映画の倫理が問われる場面に於いては、セックスや暴力自体が否定されているのではなく、あくまでもその「動機」と「描写」が問題視されるということ、然るべき「制度」に否定されない映画とは、即ち、人物の「動作」に対する「動機」あるいは「目的」が明瞭に言明され、セックスや暴力の直接的な「描写」が回避された、つまり、後者が省略され前者が省略されない映画のことであり、従って、後者が省略されず前者が省略されるという見事なまでの転倒を示すこのフランス映画が、然るべき「制度」に拒絶されてしまうのも当たり前のことなのです。さらに言えば、その拒絶は小市民の社会生活に混乱を来す「反=倫理」の否定などという生易しいものではなく、それが「映画」であること自体が否定されているとさえ、もはや「表現の自由」が云々などと悠長に構えている場合でもないのかも知れません。

 公開初日、土曜日の午後からの回だったのですが、案の定観客は疎ら、もはや「シネマライズ」の常態とでも言うべきか、二階席は相変わらず「閉鎖」でした。こんなことで大丈夫なのでしょうか、と、毎度のことながら心配になってしまいますね。


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