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スターリングラード
監督: ジャン=ジャック・アノー
2001年4月21日(新宿アカデミー)

 吊された視線



 この映画の中に、ライフルのスコープを覗く人間が其処に自分を狙ってやはりスコープを覗いている人間を発見するという実に映画的な場面があって、やはり如何にも映画的な結論として「主観ショット」の側が撃たれてしまうことになります。戦場あるいは戦争映画に於いて、「視線」は即ち「死」を意味し、大抵の場合、それに遅れた人間が不幸な結論に甘んずることになります。

 狙った標的を外すことなどあり得ない有能な狙撃手同士の対峙が描かれているこの映画に於いては、その「視線の原理」とでも言うべきが極端化されており、従って「視線」は徹底的に排除されています。互いに視線を交わすどころか、何れか一方が相手に視線を投げ掛けてしまえば、それが即ち「物語の終り」を意味するですから、少なくとも物語の結論を示すべき瞬間が訪れるまではそれが排除されるのも当然のこと、つまり、此処に於いては視線の不在、「見る/見られる」あるいは「見つめ合う」という状況の不在が物語の持続を約束しているわけです。しかし、その状況が如何ともし難い矛盾を孕んでしまうのは、ひたすらに息を潜めスコープ越しに標的を狙う狙撃手の物語が本来的には「視線の物語」に他ならないからであり、さらに言えば、其処に対立の構図が持続されるのは、視線の交換が持続されてこそ、その「視線を奪われた視線の物語」は、持続されているはずの両者の対峙すら怪しくしかねないのです。従って、此処に要求されるのは「死」に至らない「視線」の持続、それは投げ捨てらた煙草のフィルターであり、あるいは、疑似的な視線を捏造する工場のガラス片、そして、此処に於ける「視線=情報」の象徴とも言えるのが、タルコフスキーの映画を想起させなくもないあの少年の存在なのです。彼は正に「視線」として、対峙する両者を往来し、物語の持続が要請する「視線の不在」を、やはり物語の要請に従って補うことになるのです。そして、その少年に何れ訪れることになる物語的な不幸は、戦場あるいは戦争映画に於ける「視線」が意味するそれを、他でもない「視線」そのものであった彼がやはり免れ得なかった結果に他ならず、そして、その不幸の果てにさえ、彼は相変わらず「視線」として、戦場あるいはスクリーンにその憐れな姿を止めることになるのです。何れにせよ、少年によって持続されていた「視線」が、この物語が一つの結論を得る段に於いて、漸くその本来の主体、狙撃手達に還されることになるのは、この物語に於ける当然の流れと言えます。

 此処に於いて「視線」と同様に着目すべきは、この対峙する両者に於ける「距離」の問題、やはりこの物語が結論を得る段に於いて、その「距離」もまた漸く克服されることになるのですが、では、彼らは何故その「距離」を克服する必要があったのか、それは、両者に訪れたその状況の変化に無関係ではありません。そもそもこの主人公に「距離」が許されていたのは、勿論、彼が狙撃手だからに相違ないのですが、映画的には些か「卑怯」であるとさえ言える(「視線」の交換がないのは致命的)彼の戦闘行為がやはり許されていたのは、其処が戦場であり、彼が人格を持たぬ匿名の兵士に過ぎなかったからです。彼の「匿名性」は彼を捉えるカメラにも顕著で、物語の前半はそれが徹底されています。その意味に於いて、この映画の宣伝用の文言、「愛するターニャ、今日も僕は君のためにまたひとり敵を撃つ」というのは酷い出鱈目で、物語的に言えば、その文言通りの動作をするのは唯一回のみ、それが即ち物語の結論でもあるのですが、しかし、それ以外の場面に於ける彼はあくまでもプロパガンダに利用された、それ故にむしろその「匿名性」が明らかになる一個の兵士としての動作を繰り返すのであり、その戦場に於ける「匿名性」があの些かも映画的ではない「距離」を可能にしているのです。物語の後半、彼はその「匿名性」を抛棄し、「特定の個人」としてスクリーンに現れることになるのですが、「特定の個人」としての彼は、もはやその捏造された「距離」を挟んでは一度たりともその動作に至ることがない(「特定の個人」としての彼は観客の前では狼すら撃たないのです)、何故なら「特定の個人」として実行されるそれは、もはや「殺人」以外の何ものでもあり得ないからです。

 暫し余談。スクリーンが映す殆どの「戦争」はあくまでも史実の再現であり、それ自体が捏造されることは先ずありません。例えば、犯罪映画の場合、最近ではスパイク・リー監督の『サマー・オブ・サム』などがそうですが、実際に起こった犯罪なり実在の犯罪者を扱った映画も確かにあるのですが、大抵は架空の、物語のために捏造された犯罪あるいは犯罪者であるに過ぎません。しかし、戦争映画の場合は、勿論、物語のディテールに於いては架空の作戦なり架空の兵士の存在を認めざるを得ないのですが、その舞台はあくまでも第二次世界大戦やベトナム戦争(少し前には「湾岸戦争もの」が流行りました)などの現実に起こった戦争であり、戦争それ自体が(物語のために)捏造されることなど滅多にありません(例外があるとすれば『スターウォーズ』のそれような非現実的な状況を借りた戦争か、政治色の強い、むしろ政治映画とでも言うべき「近未来核戦争もの」、あるいは宇宙人相手の「戦争」という荒技もあります)。では、ハンニバル・レクターのような凶悪な犯罪者が娯楽映画のために捏造されても、戦争が捏造されることが決してないのは何故か、戦争という「人類最悪の犯罪行為」に比べれば人喰博士の如きはモノの数ではない、要は「程度」の問題とすることも確かに可能なのですが、しかし、決してそればかりではないはずです。それは、その話を裏返してみると案外分かり易くて、例えば『ベーゼ・モア』に於いて捏造された連続殺人が「反=倫理」の烙印を押されてしまったのに対して、「数」の話で言えば、その何百倍もの「殺人」を観客に目撃させたスピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』が、その「描写」が取り沙汰されはしたものの、しかし間違っても「反=倫理」を指摘されたりしないのは、その「趣旨」の問題ばかりではなくて、それが「実際に起こったこと」の再現である故、あらゆる人類がその「当事者」であるという至って常識的な認識に立脚すれば、その「倫理」を指摘し得る資格を有する人間など、実はこの地球上の何処を探しても見つからないのです。つまり、それが「実際に起こったこと」の再現である限りは、如何なる大量殺人も(娯楽映画としてさえ)其処に許容されるということ、それがもし(現実に起こった何事をも示唆することのない)「架空の戦争」なら、其処に問われる「倫理」のハードルは格段に高くなるはず、要は誰もそんな危険など冒したくはないということです。史実を巧みに「利用」すれば、大量殺人の場面に於いて「血糊」を無尽蔵に垂れ流したり、野心的な「編集」を試みることさえ十分に許されるのです。

 閑話休題。物語的な転換として「特定の個人」と化すのは主人公ばかりではなく、その地位と其処に発見される主体性から本来的にむしろ「匿名性」が薄いとも言える、その異様なまでの執着心と少年との関係からヴィスコンティの映画を想起させなくもないナチス将校もまた、最終的にはその「匿名性」を抛棄することになります。象徴的なのは「認識票」を取り上げられてしまうということ、認識票を身に付けぬまま戦場に在る彼は「特定の個人」以外の何者でもありません。認識票の不在は、一見して「匿名性」を高めるようにも見えるのですが、しかし、これは現実の戦場ではなく、あくまでもスクリーンに再現された戦場、戦争映画に於ける認識票とは、其処に記された固有名詞への帰属ではなく、あくまでもそれを首からぶら下げる集団への帰属を意味する記号であり、従って、認識票の抛棄は彼を匿名ならしめていた集団からの逸脱、即ち「特定の個人」への回帰を意味するのです。

 もはや「匿名性」が抛棄された両者の対峙に於いて、それまで厳然と存在していた「距離」は克服されることに、何故なら、それは「特定の個人」として果たされる動作を正当化すべくの「理由」が既に摩り替わっているのと同様に、彼らの間に在るべき「距離」もまた摩り替わっている故、従来通りの「距離」はもはや許されないのです。誰がそれを許さないのかは今さら書くまでもないこと、それは、同時にまた「視線」をも取り戻した両者の対峙に於いて、如何にも映画的な「視線の持続」が果たされることとも決して無関係ではありません。

 公開から既に何週か経っている土曜日の午後、主演のジュード・ロウが客を集めているのか、劇場は八割方埋まっていました。その殆どが若いカップルだったのは、これが戦争映画というよりむしろ恋愛映画であるという情報が予め行き渡っていた証左なのかも知れません。
 冒頭の戦闘シーンが何かと話題になっているようですが、戦闘シーンそのものより貨車の扉にかけられる鍵(クロースアップで捉えられます)と上官による無闇矢鱈な「粛清」がむしろ衝撃的、加えて、これほどまでに士気の低い軍隊がスクリーンに現われたのは戦争映画史上でも類を見ないのではないかと、そんなことを思いました。また、ドイツもコイツ(ロシア)もベラベラと英語を話すというのが一部で批判の対象となっているようですが、確かに、ロシア人同士が「イッツ・グレイト!」などと快哉を叫び合うサマは、幾ら「映画」とは言え、やはり違和感を覚えてしまうものです。


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