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アカシアの道
監督: 松岡錠司
2001年4月22日(ユーロスペース1)

 理解し得ないもの



 「理解し得ないもの」に出会したとき、映画はひたらすら「表徴」を積み重ねて往くより他に術を持ちません。それが人間なら、その内面や行動を促す意志を映し出すことなど予め抛棄して、結果として現われる表徴を其処に捉えることに終始します。しかし、スクリーンに在るあらゆる人間が、そもそも映画あるいは物語の要請に従って其処に在るという当たり前な理屈からすれば、映画が「理解し得ないもの」などスクリーン上には存在し得ないはず、それでも尚「理解し得ないもの」を其処に残す、万能であることが抛棄された映画とは、観客にその視座を明け渡した映画であり、つまり、一定の「誠実さ」が保たれた「現実的」な映画ということです。

 アルツハイマーの母親とそれに困惑する娘、観客が此処に目撃するのは「理解し得ないもの」と「理解し得るもの」の対峙であり、スクリーンに在る「理解し得るもの」が観客同様にやはりその相手を「理解し得ない」という立場である故に、主人公である後者に対する「感情移入」は比較的容易に果たされもします。冷蔵庫を埋め尽くすビール、衣服を焦がすアイロン、観客がそれら「表徴」を以て「理解し得ないもの」の「状態」を発見するのと等しく、主人公もやはりそれらを唯一の手掛かりとして、相手が「理解し得ないもの」であることを理解するに至るのです。本来ならば、其処に共有された時間の差違が同じものと対峙する観客と主人公の立場を隔てることになるのですが、しかし、此処に於いては既に共有された時間、即ち「過去」もまた観客の共有を許すことに、「現在」に呼応して立ち現れる「フラッシュバック」は、いまだ「理解し得るもの」同士であった、それ故にこそ軋轢が生じてもいた時間に於ける両者の関係を、物語に不足のない程度に観客に教えることになるのです。念のため繰り返しておくと、此処で言う「理解し得るもの」とは共感なり同化が可能な対象のことではなく、あくまでもその内面に観客あるいは主人公の理解が及ぶ対象のこと、娘を不当に抑圧する母親や真実を聞かされて途端に距離を置こうとする恋人が何故そうするのか、物語的に為される説明あるいは「経験」から、観客は彼らの内面を十分に理解し得るのです。尤も、物語前半に於いては、いまだ「理解し得ないもの」と「理解し得るもの」の対峙が明らかとはなっておらず、何故なら、主人公は母親との「過去」に支配され、もはや「現在」を喪失した母親がその視線の先に映しているのもまた「過去」に過ぎなかった故、(フラッシュバックも含めて)そうやって「現在」に引き戻された「過去」にスクリーンが支配されるのは、主人公あるいは観客の願望として、其処に「理解し得るもの」であることへの淡い期待が繋がれているからです。その期待が完全に失われ、「理解し得ないもの」と「理解し得るもの」の本来的な対峙が明らかとなるのは、其処にカットバックされた「過去」と「現在」が完全に逆転してしまう「取組み合いの場面」から、この場面を挟んで、少なくともこの映画が「過去」に支配されることはなくなり、ひたすらに、救いようのない「現在」を捉え続けることに、「理解し得ないもの」はただひたすらに「表徴」を積み重ねて往き、「理解し得るもの」は困惑を深めて往くその内面を観客の前に晒け出す、そしてその対峙は、傍観者に過ぎない観客がその「無力さ」を自覚する場面、「明け方の橋の上」で一つの結論を見ることになります。

 さて、その「明け方の橋の上」での結論は如何にも「物語的」に回避されることになります。それまで主人公あるいは観客の前に「理解し得ないもの」として何度か現れていた少年が、その場面にもやはり如何にも「理解し得ないもの」に相応しい仕方(演出的にもかなりの無理があります)で出現し、それを契機として「理解し得るもの」に変じ、「理解し得ないもの」に対する態度を示唆することになるのです。彼が「理解し得るもの」に変じたのは、彼が偶然にも同様の過去を持つという物語的な事実によって、そして、彼が何らかを示唆し得たのは、彼にとってアルツハイマーの母親が必ずしも「理解し得ないもの」ではなかった故、否、正しくは何かを理解したというより、現在あるいは過去と言った「時制」を越えたところに存在する「本質」を感じ取ったとでも言うべきか、主人公が外泊していた際のエピソードがそれを説明しています。其処に捉えられる母親の柔和な表情は、それまでひたすらに積み重ねられてきた「理解し得ないもの」としての「表徴」をほんの一瞬だけ裏切るのです。

 この「転換」が如何にも「物語的」であることを以て、其処にある種の「不誠実さ」を発見することは容易なのですが、しかし、これはむしろ「現実」に対するその態度の「留保」とでも理解すべき、つまり、「明け方の橋の上」で示された一つの結論を安易に否定するでもなく、また、この物語の最後に示唆される結論も決して無条件には肯定されていない、その「非現実性」は「現実」に余地を残すのです。

 「理解し得ないもの」は相変わらず「理解し得ないもの」として、物語に何らかの結論が訪れたからと言って、しかし、決して「理解し得るもの」に変じたりはしません。観客が其処に目撃し得る「理解し得ないもの」と「理解し得るもの」の対峙も、物語の始めに目撃されたそれと、どれほども変わってはいません。両者が「理解され得るもの」同士であった時間、即ち「過去」に対する(一方的な)和解と、今後も喪失され続けるのであろう「現在」に対する寛容、ひたすらに「表徴」を積み重ねるしかない存在に対するあるべき態度が(「理解され得るもの」の動作として)示唆されているに過ぎません。それは決して「理解」などではなく、言うなれば「時制」を越えたところに残される何ものかに対する「敬意」とでも、映画とて、その「理解し得ないもの」が、主人公の「母親」であるという事実くらいは知っているのです。

 公開から既に何週か経っている日曜日の午後、そもそもが客席数の少ないユーロスペースをしても「ガラガラ」でした。この映画の中の「母親」と丁度同年代くらいの女性がグループで観に来ていましたが、彼女らはこの映画に一体何を思うのでしょうか? ちなみに私が彼女らの立場なら、こんな映画を観に来ることは先ずありません。そんな勇気はとても…。


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