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ショコラ
監督: ラッセ・ハルストレム
2001年4月29日(新宿ジョイシネマ2)

 カルピス世界名作劇場



 パンフレットを参照したところによると、この映画は原作小説の設定が大幅に変更されている箇所があって、それは、原作小説では舞台となるコミュニティーの中心が教会(神父)であるのに対して、映画では村長になっているという点、映画にも勿論神父は登場するのですが、原作小説の設定よりかなり若い彼は専ら村長の傀儡に堕しているという具合です。私自身その原作小説を読んでいるわけでもありませんから、余りいい加減なことも書けないのですが、この設定の変更は、あるいは教会との直接的な対峙を回避するための便宜のようにも、それは物語内容を幾分軽くすると同時に、やはりある種の「配慮」の意味もあるのではないかと、穿ち過ぎのような気もしないでもありませんが、しかし、この類の「不自由さ」を映画に発見することなど然して珍しいことでもありません。

 差し当たって「物語」にのみ言及すれば、これほど退屈な映画はありません。「退屈」という表現に語弊があるならば「在り来たり」とでも、「物語」が限りなく反復、再生産される性質のものであるという事実を改めて認識させられたというでも言うべきか。有り体に言えば、閉鎖的な小集団と其処に紛れ込んだ「余所者」の対立と和解の物語、その対立と和解を促す装置が「ショコラ」であるということがこの物語を幾分「個性的」にしているとは言え、この映画(あるいはこの監督)の持つ雰囲気が既に「和解」を予感させていることも相俟って、其処に何一つの「意外性」すら発見されないまま物語は大団円を迎えるに至るのです。勿論、そうやって物語構造を単純に図式化してしまえば、あらゆる物語にその「類型」を発見せざるを得なくなってしまう、否、そもそもこれは「単純化」によって複雑で現実的な何らか示唆する「メルヘン」なのであり、その意味に於いて、此処に現れる「分かり易さ」に何一つの過誤をも認めることはできないのですが、しかし、それはそれで尚さら、その存在の意味を疑ってもしまいます。例えば、此処に於いては「食べる/食べない」がそのまま「受容/拒絶」のメタファーであるとか、それがさらに「何を拒絶するかではなく、何を受け容れるかである」という神父の説教として締括られることになることになるとか、あるいは主人公自身にも同様の対峙が入子状に内在しているとか、私が此処にあるはずの大きな何かを見落としているのでなければ、否、余りにも単純過ぎて「戸惑い」すら覚えてしまうのです。そもそもこれは物語を単純化し過ぎている嫌いがあって、主人公と「村長に象徴される閉鎖的コミュニティー」との対峙ではなく、単に「村長個人」との対峙に堕してしまっている感さえ、実際、村長個人を懐柔することによって問題はあっさり解決、否、そもそもこのコミュニティーは既に主体性を欠いた、何かが既に形骸化した状態にあり、その意味に於いては、確かに、村長個人あるいは「村長によって守られている何か」との対峙に他ならないのですが、それはしかし、物語の概念化をますます容易にし、つまり、ますます「退屈」なのです。

 この物語の退屈をさらに加速させるのは、その対峙に於ける「サスペンス」の欠如、例えば、ジョニー・デップが酒場に乗り込む場面、拒絶された彼の表情に即座に立ち現れるのは「諦念」であり、観客の期待を裏切るその「物分かりの良さ」は、此処に在るはずの対立の構図を曖昧にしてしまいます。川べりで主人公が最初にジョニー・デップに会う場面でもそう、遠くに村長の姿を確認して、当て付けがましく買い物をするのですが、しかし、それは何一つの緊張関係すらも予感させません。空撮風のCG(多分)が映すコミュニティーの全景は、同じような形状の家が規則正しく並ぶという、正にその「閉鎖性=悪意」を表徴し得ているのですが、しかし、それが「接写」として切り取られた途端に「善意」にすり替わってしまうのがこの映画の本質、「メルヘン」に過ぎないこの物語に期待されている、専ら人間の本質に関わる「真理」もやはりそれに同様なのです。必ずしも子供向けではない、大人の鑑賞に耐え得る「メルヘン」とは、其処に現実的な、即ち大人としての経験則が同意し得る「悪意」が現れるものであり、やはりジョニー・デップが出演していたことで引合いに出せば、ティム・バートン監督の『シザーハンズ』などは正にそう、その意味に於いて、この映画は文字通りの「メルヘン」である以外の何ものでもなくて、私が先ず想起したのが「カルピス世界名作劇場」であるというのも、然して無理のある話でもありません。

 物語の冒頭、主人公が調度品を一つ一つ「置く」場面、それらがそれぞれクロースアップで捉えられるのですが、その場面の「美しさ」は、この(退屈な)映画の中で突出しています。この物語以前に於いても何度となく繰り返されたのであろうその動作は、何れそれが「取り去られる」ことを予感させ、決して地面に根を張ることのない「デラシネ」の悲哀を感じさせるものです。

 公開二日目、日曜日の午後、何故かガラガラでした。尤も、これを観た翌日、渋谷で別の映画を観たのですが、この同じ映画が上映されていたその隣の劇場では立見の出る盛況ぶり、この映画の対象は専ら若いカップルなのでしょうから、新宿と渋谷ではその「若いカップル」の存在比にかなりの差があるということなのかも知れません。あるいは、新宿地区では中規模の劇場三館で同時上映されている影響もあるのでしょう。


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