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セシル・B ザ・シネマ・ウォーズ
監督: ジョン・ウォーターズ
2001年5月4日(シネ・アミューズ)

 厨房は逝ってよし!



 あらゆる「映画」はハリウッドからの「距離」によってその意味が測られる、誰の発言だったかは忘れてしまいましたが至極真当な見識です。配給規模や興行収益のような「現象」を持ち出すまでもなく、商業映画の主流がハリウッドにあるのは今も昔も変わりのないこと、些か退屈な欧州映画をして「ハリウッド的ではない」と一口に評する凡庸さ、差し当たってそう評することでそれなりに意味が伝わってしまうのも、ハリウッドがその中心に存在することの何よりの証左と言えます。「ハリウッド的」が即ち「商業主義的」に殆ど同義であることを今さら批判しても詮方ない話で、そもそも商業映画が商業主義的であってはならない理由など何処にも、商業的な成功が即ち商業主義的な方法論の勝利であり、それが大多数の観衆の「同意」の上に成り立っている以上、文句の付けようがないのです。文句を付けるとすれば「観衆は莫迦だ!」と発言したカサヴェテスのように、その商業主義的な「制度」を嬉々として受け容れ、実際、「映画」を不幸にしているのかも知れないその「制度」の片棒を担いでいる観衆を批判するより他には、「こんな映画を観て悦んでいる奴は莫迦だ!」と、およそ実に乏しい映画批評が帰結するのも往々にして其処です。この際、映画批評の在り方はともかくとして、「莫迦だ!」という決定的な事実を宣告する前に、それなりの啓蒙活動があって然るべき、ロバート・アルトマンの『ザ・プレイヤー』やこの映画には、それが監督の自己満足や一部マニア向けの「サービス」でないのならば、そのような意味があるに違いありません。それは、アルトマンのそれにしても、この映画にしても、その体裁が今どきのハリウッドの主流と思われる作品群よりも余程単純明快な「娯楽映画」であるということにも明らか、実際、この映画は、昨年のアカデミー作品賞にノミネートされたどの映画よりもその物語構造と映像表現が単純で分かり易い、それは「教育的配慮」とでも呼ぶべきものです。尤も、その折角の教育的配慮も配給を巡る「制度」によってまるで骨抜きにされているのが現実、この映画が、其処で指摘されていることなど「既に分かっている」ような連中(勿論、私も含めて)の目にしか触れず、結果的に「よくぞ言ってくれた!」と、ウエブで映画評など公開して嬉々としているような退屈な連中(勿論、私も含めて)を増長させるだけというのは、余りにも虚しい現実のような気がします。実際、こんな映画を観て悦んでいる自分が恥ずかしくもなりました。

 此処で取り沙汰されているのは専ら商業主義的な「制度」の問題、『フォレスト・ガンプ』や『パッチ・アダムス』が槍玉に上げられているのは、勿論、監督自身の趣味の問題もあるのでしょうが、しかし、此処で問題視されているのは、それらの阿房らしい物語内容ではなく、あくまでも前者の「続編」と後者の「完全版」、そんなものが罷り通ってしまう安易さ、それを受け容れるであろう「莫迦」を見越した制作者の悪辣な態度です。但し、此処に在るのは、あくまでも「制度」の存在を大前提とした「反=制度」であり、その些か過剰なデフォルメの故に、あくまでも「制度」の存在を炙り出すに止まり、それ以上の何かを示すには至りません。尤も、これは啓蒙活動の一種なのですから、それで十分と言えば、十分です。あるいは、彼らが殊更に「過剰」な存在であるのは、一見「反=制度的」とも思われている所謂「インデペンデント系」をも槍玉に上げる意味があるものと思われ、「オフ・ブロードウェイ」の頽廃にも似た其処に失われつつあるものを彼らの中に残そうとすると、勢い「過剰」にもなってしまうのかも知れません。

 此処に在る(単純な)二項対立を「娯楽/芸術」などと理解するのは如何にも貧しい態度で、娯楽映画が即ち商業主義的あるいは「制度的」でもないのは、他でもないこの映画が証明してもいるところ、「娯楽性」の何たるかを定義付けるなど私には到底出来ないのですが、それが本来、映画自体の「質」が問われる問題であるのは言うまでもないこと、しかし、「制度」の要請は必ずしもそれに一致しない、例えば、此処にあるような(90分にも満たない上映時間も含めた)簡潔明瞭さが失われていたり、殊更に観客の同化を促す煩わしい「配慮」があったり…、と、結局は「良質な娯楽映画を知ることのない観衆は不幸である」という話に行き着いてしまうわけで、それは「こんな映画を観て悦んでいる奴は莫迦だ!」という狭量と大差のない、ともすれば傲慢不遜とも指摘されかねない態度に他ならず、否、そもそも死ぬまでに一本の映画すら観ていない人間がいたとしても、しかし、彼の不幸を指摘できる人間など何処にもいないことからすれば、差し当たってはその不幸の主体を「映画」にでも置き換えて御茶を濁すより他ありません、か。私に啓蒙活動は向きません。

 一つだけ補足しておけば、今どきのハリウッド映画は一時期ほどは酷くないようにも思われ、当然ながらその流れを支えている観衆も然り、その「流れ」が「制度」の中から現れたのか、あるいは外部からの刺激がそうさせたのかは分かりませんが、ただ、明らかなのは、その「流れ」を巧みに利用するのこそが「制度」であるということ、「制度」が常に「映画」の対立項であるとは限らないにしても、その侵食はエピゴーネンの大量発生を促し、堕落を加速させます。

 公開から数日後、祝日の最終上映回、小さな劇場は八割方埋まっていました。この監督らしい「悪趣味」の場面でも場内は水を打ったような静けさ、「不幸」な観衆は大劇場にばかりいるとは限りません。
 しかし、改めて思うのは、世界有数の映画都市である東京の都心に暮らし、映画館に足を運ぶにしても、常にそれなりの選択肢を与えられている私のような人間はどれほども不幸ではないということ、この映画ですら(劇場で)観る機会に恵まれない環境にある人達の「不幸」には素直に同情します。


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