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ベレジーナ
監督: ダニエル・シュミット
2001年5月6日(ユーロスペース2)

 気絶するほどの嘘を



 それ自体が既に虚構である「映画」の中に、言わば入子状に虚構が紛れ込むのは、例えば「劇中劇」がそうですし、架空のニュース番組を流すテレビ画面がスクリーンに映されれば、それもやはり「虚構の中の虚構」ということになります。映像倫理に関する何かの法律(詳しくは知りません)では、この「虚構内虚構」の使用に際しては明確な規則が設けられているそうで、それは、例えばテレビドラマの中で(テレビに映し出された)架空のニュース番組などを流す場合は、必ずそのテレビのフレームが映るようにカメラを引いて捉えなくてはならない、つまり、それが「テレビ内テレビ」であることが明示されなくてはならないというものです。これは勿論、視聴者の混乱を回避するため、何気なくチャンネルを切り替えた人が架空の臨時ニュースを真に受けてしまうことがあっても何ら不思議はありませんし、実際、そんなことがあったようにも記憶しています。何れにせよ、テレビのフレームや(舞台の)観客席が「見切れ」ているような場合は「虚構内虚構」の見極めも容易、否、そもそもその物語を始めから漏らさずに観て内容を十分に理解していれば、其処に突然「虚構内虚構」が現れても、大抵の場合は混乱が生じたりはしないはずです。

 この映画の中に現れる「虚構内虚構」が観客に些かの混乱を生じさせる、あるいは「トリッキー」なものにも見えてしまう一番の理由は、それが物語の冒頭に現れるからに他ならないのですが、しかし、理由はそれ以外にも、「虚構内虚構」としてのこのシークエンスは「映画=虚構」という、実は至極当たり前の事実を大胆且つ無邪気に実践してみせたこの映画そのものを示唆しているようにも思われます。簡単に言えば、主人公の女性がいきなり至近距離から拳銃で数発撃たれて死んでしまうのですが、この「嘘」を見抜くための要点は幾つかあります。先ず、そもそも撃たれた女性が主人公であることを予備知識として持ち合わせているかどうかということ、簡単な粗筋を把握した上で主人公を演じる女優の顔写真くらい事前に見ていれば(決して有名な女優ではありません)、物語の冒頭にいきなり殺されてしまう人物が主人公であるはずなどありませんから、パンフレットや情報誌の記載を疑うような捻くれた人でもなければ、このシークエンス自体を疑うはず、その時点でこれが「虚構内虚構」であると理解されるのです。が、しかし、これがそう簡単な話でもないのは、先ず以て映画それ自体が「虚構=嘘」であり、大抵の観客がその事実を十分に理解している故、他でもない「切り貼り」のメディアである映画に於いては時制の操作など日常茶飯事、このシークエンスが些か不親切な「フラッシュ・フォワード」でないなど誰にも断定できないわけで、つまり、「映画の冒頭」が即ち「物語の冒頭」でもないということ、「映画の冒頭」に主人公の死が目撃されるなど、然して驚くべきこともでもありません。この映画の前半では、これと殆ど同じ場面が何度か繰り返される、つまり主人公が撃たれては起き上がってということが繰り返されるのですが、しかし、そのような「反復」もやはり「映画=虚構」の常套であるのは、ある程度映画を観ている人には既に理解されていること、従って、それを以てしても、その一連のシークエンスを「虚構内虚構」と断定することはできないのです。さらに言えば、その「反復」が微妙な差違を含んでいることさえ何の根拠にもなり得ない、「事実」の多面性など「映画」は既に、この百年の間に飽きるほど指摘しています。

 では、そのシークエンスに於いて、主人公が至近距離から何発も撃たれているにも関わらず一滴の血も流さないのはどうでしょう? その事実を以てそれが「空砲」と「撃たれている演技」に過ぎないと指摘できるかと言えば、それもやはり難しいようです。確かに今どきの「現実主義」は、派手な血糊どころか内臓の垂れ流しまで要求するのですが、しかし、すべての映画がそうであるとは限りませんし、一昔前の映画ならむしろそれが当たり前、一滴の血すら流れなくともそれは十分に一つの現実、即ち「死」を意味していたのです。否、如何な「現実主義」とは言え、撮影に際して「実弾」を使ったりはしないわけで、空砲はあくまでも空砲、何れにしても「空砲」と「撃たれている演技」という言わば「約束事」によって成立するそれは紛れもない「映画=虚構」のそれであり、主人公の些か芝居染みた演技も含めて(映画はそもそも「芝居」なのですから)、それを「虚構内虚構」であると断定するにはやはり足りないのです。尤も、『プライベート・ライアン』のような「現実主義的」な映画の中にこのシークエンスが紛れ込んでいれば、それを「虚構内虚構」と指摘することも容易なのですが、しかし、決してそうではありませんし、何よりも、このシークエンスは映画の冒頭に、この映画が主にどんな表現手法によって成立しているのかなど、映画を観る愉しみを抛棄する覚悟で事前に相当の情報収集しておくのでもなければ、その時点では誰にも分からないのです。

 さて、ともすれば非常に紛らわしくもあるこの「虚構内虚構」は、勿論、物語が進行するに連れ誰の目にもそれが「虚構内虚構」であると理解され、また同時にそれが物語的に優れた「伏線」であることをも知れることになるのですが、この一連のシークエンスが何よりも優れているのは、観客にその意味を理解させる過程が即ち「映画=虚構」という当たり前の事実を再確認させる過程でもある故、この入子の構造に目隠しをするのは、観客が目に映している「それ自体」が既に内包する構造、トリックの種明かしが新たなトリックを生んでいるのです。

 この映画にはそれと同様に機能する装置が幾つも鏤められており、それらの連鎖がこの壮大な「ありもしない物語」の、その快楽に目眩さえしてしまう「虚構性」を見事に加速させています。これは「映画」が「虚構」であることをひたすらに隠そうと腐心する表層的「現実主義」の対極に位置する映画、否、それは決して「開き直り」などではなく、ただ「映画」本来の姿を、それを忘れかけている人達に親切な注釈を挟みながら示してみせているに過ぎないのです。どうせ嘘なら気絶するほどの嘘を、それでも「映画」は、其処に「現実」を映すことを決して忘れたりはしないのです。

 公開二週目の日曜日の午後、そもそもが客席数の少ない「ユーロスペース」の漸く半分が埋まっていた程度、この同じ映画館で数週前まで特集上映されていたジャン・ユスターシュが同じ条件で満席に近いくらいの観客を集めていたことからすると今一つ納得の往かないところ、巷の「シネフィル」どもの頭の悪さを指摘したくもなります。
 そもそもが半年以上も先の話で、また、私は何であれ映画作品に順序を付けるという行いなど余り得意とはしていないのですが、今年の暮れあたりに「今年一番の映画は?」と問われれば、何となくこの映画の名前を挙げているような気がします。


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