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アメリカン・サイコ
監督: メアリー・ハロン
2001年5月13日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 省略と逸脱の試み



 北野武監督の『BROTHER』には、明らかに「編集ミス」と思われる箇所が幾つかあって、例えば物語の序盤、組長が襲撃され殺されてしまう場面を含めた一連のシークエンスは、明らかに「余計」と思われるカット一つ挟み込まれている所為で、物語の理解に僅かながらの誤解が生じてしまいます。簡単に説明すると、事務所で組長の安否を気遣う主人公のクロースアップから転じて組長が襲撃される場面に、主人公の「悪い予感」が的中してしまったことが説明されているのですが、しかし、問題はその後、その場面から再度(事務所にいる)主人公のクロースアップのカットに一旦戻ってから、組長の葬儀に場面が転じるという、此処で「余計」なのは二度目のクロースアップです。そのカットが組長襲撃から葬儀へという「省略」とそのリズム感を台無しにしていることもそうなのですが、此処で重要なのは、組長襲撃の場面が主人公のクロースアップに挟まれてしまっているということ、一般的にそのようなカット割が意味するのは主人公による空想や思念のそれ、要は文字列を「鍵括弧」で括るのと同じで、その場面が属する領域を一段階下げてしまうことになるのです。勿論、その後に組長の葬儀の場面が訪れますから、物語を理解する上でどれほどの混乱が生じたりはしないのですが、そのカットの必然性が何処にもない以上、実際問題としてただ単に紛わしいだけ、明らかな「編集ミス」と断言できてしまうのです。

 果たして「現実」か「妄想」か、幾つかの場面が属する「領域」の所在は、この『アメリカン・サイコ』という映画に於いても重要な問題となります。例えばの話、最終的には単なる「妄想」に過ぎなかったと結論付けられることになる或る殺人の場面があったとして、(物語の中盤に現われる)その場面を観客に対して如何に提示するかは極めて重要なこと、予め「妄想」と分かるような手法(例えば、冒頭に記したそれのような)を用いたのでは物語が破綻してしまいますし、かと言って、恰も「現実」であるかのように、それ以外の明らかに「現実」である場面と何らの段差も設けずに場面を繋げてしまうのは、確かに、観客を「騙す」ことには成功するものの、しかし、「アンフェア」と指摘されても文句は言えません。ヒチコックの『サイコ』が「フェア」なのは、俯瞰ショット等を駆使することによって、映像の連鎖として無理のない範囲で母親の顔を隠し続けた故(勘の良い人ならカメラの位置やカット割が「何かを隠している」という映画的な事実に直ぐに気が付くはず)、アンソニー・パーキンスが変装する「母親」をクロースアップで捉えたのではその時点で結論が見えてしまいますし、だからと言って、まるで別の俳優が母親を演じたのでは「アンフェア」と、如何に巧妙に事実を「隠す」かがサスペンスの基本、「視線」あるいは「物語」の誘導等々、正に映画的な「技術」が問われる場面です。

 余談ですが、映画に限らず、例えば、推理小説の類でも、物語そのものではなく「物語構造」のようなものに着目すれば、案外早い段階で其処に隠されている「謎」を発見できてしまうもの、テレビの2時間ドラマでキャスティングに注目すれば、観る前から犯人が分かってしまうのと理屈は同じです。坂口安吾の『不連続殺人事件』など、その意味では非常に「簡単」です。

 閑話休題。では、この映画に於いて「真実」は如何にして仄めかされているのか、それはおよそ「省略」と「逸脱」に依拠していると言えます。前者のそれはかなり大胆、単に描写が省略されるのはなく、場面そのものが省略されているという、その所為で「肩透かし」を喰らってしまう向きも多いのではないかと思ってしまうくらい、実際、私もそうでした。「現実」か「妄想」か、という以前の問題として、実際(観客の想像を逞しくする幾つかの状況描写と小道具以外)其処に何も映していないのですから、確かに、文句の付けようがありません。あるいは、幾らか勘の鋭い人なら、明らかに違和感を覚えさせるこの「省略」をして既にこの物語の結論を発見してしまうのかも知れません。何れにせよ、一つの例外を除いて(その「例外」となる場面に於いても、場面そのものが省略されることはなくても、重要な描写はやはり省略されています)、物語前半は幾つかの場面の「省略」と其処に埋め合わせるべくを巧妙に誘導する「仄めかし」によって、この物語の結論が決して「アンフェア」とならないよう工夫されています。
 物語の進行に従って、幾つかの場面の描写はより過激に、それまでのように「省略」が為されることもなくなって、今度は逆に「逸脱」が試みられることになります。此処でいう「逸脱」とは、つまり「現実」を甚だ逸脱した、とても現実的とは思えない状況、描写のこと、しかし、それが決して結論を急ぐものでもないのは、それまでの「省略」と「仄めかし」による周到な積み重ねを踏まえている故、既に観客に何かを信じ込ませることに成功しているのですから、其処に多少の「逸脱」が試みられても、決して何かを疑われたりはしないのです。実際、物語後半に現れる幾つかの場面だけを切り取ってみると、其処に現れる「非現実性」は明らか、何かを問うまでもないのです。従って、此処に於いては何かを隠すどころか、むしろ率先して見せているのですから、とても「アンフェア」などとは、その意味に於いては、実によく出来た映画であると言えるのかも知れません。

 しかし、此処に試みられる「省略」が観客の期待を裏切り、「逸脱」もまた些か滑稽に映ってしまうように、その「何かを隠す」ための動作がこの映画の本来を幾らか歪めてしまっている、要は物語自体を詰まらなくしているのもまた事実、此処に於ける「省略」と「逸脱」の試みが、文字通りこの映画からサスペンス的要素を切り離してしまっているとさえ、単にバブル期に出現した「ヤッピー」どもを茶化したコメディー映画にも見えてしまうのはそれ故のこと、否、あるいはそれが「正解」なのかな?

 公開から既に何週か経っている日曜日の午後、此処のところ「恵比寿ガーデンシネマ」で上映されるプログラムは何れもそれなりに客を集めていたのですが、この映画に関してはさすがにガラガラ、全体の三分の一が漸く埋まっていた程度でした。隣に座っていた関西弁のカップルが「んなアホな〜」とか、いちいち「ツッコミ」を入れていた(しかも大声で)のがどうにも煩かったですね。


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