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ジュエルに気をつけろ!
監督: ハロルド・ズワルト
2001年5月20日(シネマ・カリテ2)

 ファム・ファタールの不在



 映画的な悪女、所謂「ファム・ファタール」など所詮はスクリーンに投射された幻影に過ぎないと、否、今さらそんな無粋な話を蒸し返すつもりもないのですが、この映画に於けるそれは、その主体の完全なる不在をして正に「幻影」以外の何ものでもなくて、あるいは「時代」に押し流され絶滅の危機にも瀕しているある種の「願望」の発露が、その主体ごと差し出されてしまうそれは、もはや「パロディー」に堕しています。

 この物語は三つの告白によって成り立っています。第一人称による勝手な妄想の垂れ流しではなく、あくまでも告白の形式を、しかもその聞き役がそれぞれ精神分析医、聴罪司祭、そして「仕事」を依頼する相手という、それらは告白の主体の社会的立場を色分けすると同時に、本来告白に正確さが要求される相手でもあり、そのことが彼らの告白の「歪み」を際立たせることにもなっています。あるいは(マット・ディロンのそれが一番分かり易いのですが)彼らが「告白」せざるを得ない状況に追い込まれているというのもまた事実で、それもまた聞き役の存在を物語的に理由付けているのですが、しかし、此処に於ける「聞き役」の存在理由はそればかりではないはずです。そもそも彼らの告白は「妄想の共有」を企図するものであり、ファム・ファタールの幻影が彼らの満たされない内面を巧妙に埋め合わせているように、あるいは映写機が抛つ円錐状の光線がそれを投影させるスクリーンを必要とするように、彼らの告白はそれぞれの聞き役に共有される、言うなれば「投射」されることによって初めてその幻影が像を結ぶ仕組みとなっており、その意味に於いて、彼らはそれぞれの聞き役と併せて漸く一個の存在となる、つまり、此処に於けるそれはあくまでも「三組」によって捏造された物語であり、そして、そのそれぞれの物語に於いては、其処に現われる告白の主体もまた、ファム・ファタールがそうであるように、やはり幻影に過ぎないのです。彼らのそれがモノローグ、即ち「観客」をその相手とした告白であってはならないのは、物語の要請として、彼らを何れその幻影から引き離さなくてはならない故、物語後半に現われる「聞き役不在」の状況が即ちそれ、もはや幻影の構築すら覚束ない不完全な存在としての彼らは、其処で「現実」に直面することになるのです。

 物語の後半、彼らがそれぞれの聞き役との組合せを解消するのは、勿論、本来の組合せ即ち「ファム・ファタールの幻影」との組合せに回帰するためなのですが、しかし、此処に於ける「聞き役不在」の状況が既に幻影の存在を怪しくしている、つまり、それまで其処に示されていたのはあくまでも聞き役によって共有された、聞き役の存在に投射された一個の幻影であり、もはや投射すべきを失った光は、其処に何一つの像を結ぶことも能わないのです。従って、この映画のクライマックスが「ファム・ファタール不在」のまま遣り過ごされてしまうのも道理、彼らがその場面で身に纏っている頓狂なコスチュームがそれを象徴しているとも言えるのですが、彼らはただ一方的に光を抛つのみ、そして、其処に乱反射する光は、その光とはまるで無縁の、ただ「物語」を終わらせるためだけに出現した存在によって一掃されてしまうのです。肝心のファム・ファタールはと言えば、「窓の外」にすら遅れて現われ、しかも、その存在はあくまでも一個の「幻影」として、マイケル・ダグラスの視線がそれを引き継ぐことになるのです。

 もし仮に「映画」がファム・ファタールの存在を失いつつあるとするならば、それは決して「願望」の成熟に因るものなどではなく、此処に於ける「聞き役不在」の状況と同様に、その「願望」が抛つ光を受け止める装置の不在にこそ、この映画が、映画の外にではなく内側にその装置を設けたのも、今どき「映画の外」にのみ光を抛っていても、もはや何一つの像をも結び得ないと判断された故、正に自給自足の自己完結、観客に目撃されるそれが「パロディー」に過ぎない所以、これはファム・ファタールに翻弄される物語ではなく、「ファム・ファタールの不在」に翻弄される「映画」です。

 公開から既に何週か経っている日曜日の朝一番の回、情報誌には「新宿武蔵野館」での上映と記載されていたのですが、実際には同じビル内の「シネマカリテ2」での上映、おそらくは客足が思わしくない所為で早々にも「格下げ」になってしまったのでしょう。日曜日とは言っても朝一番の回ですから判断は難しいのですが、その小さな箱ですらガラガラの惨状、ダブダブのズボンのポケットに右手を突っ込んで上映を待ち構える冴えない若者がいたりして、何となく奇妙な雰囲気が漂ってもいました。


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