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ディスタンス
監督: 是枝裕和
2001年5月27日(シネマライズ1)

 距離を無効にする道具



 全編手持ちカメラで撮られたこの映画が、しかし、決してドキュメンタリー風でもないのは、視線の所在、即ちカメラの存在がどれほども観客に押し付けられていない故、其処に演出されているのは専ら映像の「自然さ」です。「自然な演技」というのは一種の形容矛盾なのだと思うのですが、もし仮にそんなものが在るとすれば、カメラの存在をまるで意識しない演技がそれに相応するのかも知れず、例えば「隠し撮り」のようなことをすれば、其処には確かにある種の「自然さ」が生まれます。しかし、演技者がカメラもしくは観衆をまるで意識しないそれが果たして「演技」と呼べるものであるかどうかは些か疑問が残るところで、やはり「演技」とは本来的に「不自然な動作」なのであり、それは我々が日常的に体験する「自然さ」とは明らかに異なるものと言えます。映画なり演劇に「自然さ」を持ち込む手段の一つである「アドリブ」というのは、脚本の存在が既にして「不自然」であるとする見識に基づくもの、如何に「自然」に台詞を発したところで、それが同時間的に発想されたものではない、所詮は「再現」されたものに過ぎないという「不自然さ」は、否、そもそも映画が「自然」でなくてはならない理由など何処にもないとは言え、やはり免れ得ないものです。この映画に於いても、その「アドリブ」が多用されているようで、監督のインタビュー記事など参照すると、モデル出身の男優の台詞の殆どがそうであるとか、そもそも「演技」が出来ない人間に「アドリブ」をさせるというのは、何となく敗北主義的な演出法であるようにも思われるのですが、素人俳優を使うことが、やはり映画なり演劇に「自然さ=リアリスム」を持ち込むための常套でもあることからすれば、然して無理のある話でもないのかも知れません。何れにせよ、此処に於いては、手持ちカメラによる撮影も含めて、それらの「演出」が功を奏して、確かに「自然」な、言わば「現実主義的」な映画が出来上がっています。

 余談ですが、此処に於ける「アドリブ」の多用は、所謂「即興演出」とはまるで意を異にした演出手法、例えばカサヴェテスのそれなど、驚くべきことに「アドリブ」など殆どなくて、結果として現れるものと言うより、方法論としてまるで違っています。また、即興演出は決して「自然さ」の表出を企図したものなどではなく、むしろより演劇的な、言わばより「不自然」なものを其処に出現させる手法とも言えます。

 閑話休題。この映画に差し当って「自然さ」が要求される理由の一つは、それが現実に起こった或る「事件」を基にしているということに、現実の事件が有する「日常性」をスクリーンに引き継ぐことが企図されていると言えます。映画に於ける「現実主義」の実践とは、取りも直さずスクリーンと観客の間に横たわる「距離」を取り払う作業、この映画に於いて取り沙汰されているのが、その表題の通り(これを観る人間と)スクリーンに発見される何かとの間の「距離」の問題であるならば、先ず以てそれが「映画」であることによって必然的に生じてしまう「距離」を排除しようと試みるのは当然のこと、観客席とスクリーンを「一続き」にして初めて各々観客がこの映画の主題と違和感なく向き合うことができるようになるのです。尤も、観客に何らかの「思考」を要求する映画に於いてはそれも然して珍しいことではなくて、これもやはり「常套」の部類と言えます。

 主な舞台となる湖の水やバンガローでの焚き火、あるいは桟橋の炎、この映画を支配するのが「水」と「炎」のイメージであるのは言うまでもないことです。其処で何度も遣り取りされる煙草やマッチ、あるいは燃やされる写真、加害者の遺族の一人である女性のパソコンには「アクアゾーン」が映され、やはり加害者の遺族の一人である学生が渋谷の街で女友達と興じるのは火災をポンプの水で消火するゲーム、それらは決して偶然ではありません。想起するのはアンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』、確かに、映像として示されるそれ自体のイメージは些か異なっているのですが、例えば、それらのイメージに「人為」と「自然」、あるいは両者の対峙を当て嵌めてみると、タルコフスキーのそれとの類似性が何となく理解されもします。

 自動車と電話の喪失がこの物語を核心へと導くのも、この映画に於ける「距離」を巡る主題と決して無関係ではありません。移動あるいは通信の道具は物理的な「距離」を無効にし得るものではあっても、しかし、そのことがむしろ本来的な、心と心の繋がり、精神的な「距離感」を曖昧にしてしまうのもまた事実、物理的な「距離」を無効にしてしまう装置を失うことによって、其処に初めて「距離」を測るべくの思考が動き出し、あるいは何かが発見される、契機としては至って自然です。ただ、「映画」として差し出されるそれがあくまでも「距離感の錯覚」の上に成り立っているという事実もまた見逃せないところ、悪い意味ではなく、やはり所詮は「虚構」に過ぎないということです。

 公開二日目の日曜日の午後、此処のところ「シネマライズの二階席が常に無効になっている」と書いていたのですが、今回はさすがに「有効」になっていました。尤も、実際には一階席だけでも十分な程度の客の入りでしたが。当初は公開初日に観るつもりをしていたのですが、初日は舞台挨拶があるとのことで、無用な混雑は回避したい私としては結局二日目に、劇場の外には行列の向きを指示した貼紙がされており、その貼紙に初日の混雑ぶりが窺えもしました。勿論、二日目にはそんな貼紙など何の意味も為してはいませんでした。
 他人様の映画評をとやかく言うのなど余り趣味ではないのですが、「映画瓦版」のこの映画に関する文章はしかし流石に、彼は映画評を介して自身の頭の悪さを世間に知らしめようと企んでいるのでしょうか?


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