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彼女を見ればわかること
監督: ロドリゴ・ガルシア
2001年6月2日(ル・シネマ1)

 死に至る病



 この映画を「群像劇」を評する向きがあるようにも見受けられるのですが、これは単なる「エピソード集」もしくは「オムニバス映画」ではないかと、個人的にはそう思っています。確かに、すべてのエピソードは緩やかながらも「時間」と「空間」を共有していますし、実際、あるエピソードの主人公が別のエピソードに脇役として現れたりということも比較的頻繁に起こりますから、これを「群像劇」と評しても別に間違いではないと思うのですが、例えば「一つの流れに収束しない一風変わった群像劇」などという表現に出会したりすると、「それって『オムニバス映画』のことだよ」と指摘したくもなってしまいます。つまり「一風変わった群像劇」ではなく「ありふれたオムニバス映画」と(誤解がないように補足をしておけば、ありふれているのはあくまでも物語構成で、この映画自体をそう評しているわけではありません)、エピソード間に生じる気紛れな交錯は「空間」や「時間」の共有を第一義とした、即ち「群像劇」のそれというより、単にエピソードあるいは人物間に多少の連関を持たせるための、要は観客に「パズル遊び」の愉しみを与えるための「サービス」の一種に過ぎないようにも思われます。私が定義する「群像劇」とは、単に人物同士が互いに連関、交錯し合うエピソード群のことではなく、其処に共有される「空間」や「時間」それら自体が何らかの意味を持ち得るもの、少なくとも、此処に共有される「ロスアンゼルス」という空間には、例えば、ロバート・アルトマンの「アメリカ南部」が持つような「意味」を見出すことはできません。「群像劇」が往々にして一つの流れに収束するのは、一見してバラバラにも見えるエピソード群がそもそも「一つの流れ」の中に在る故、それら自体が何らか意味を有する「時間」なり「空間」を共有するとは、つまり、そういうこと、ある意味それは「群像劇」の必然なのです。

 此処に共有される「時間」や「空間」に然したる意味があるとも思えないのですが、ただしかし、此処に共有される一人の女性の存在には大きな意味が、スクリーンを横切る彼女の存在が一つの「流れ」を起こし、文字通り「空間」でしかなった其処に共有されるべき「意味」をもたらしています。あるいは、その一点をしてこの映画を「群像劇」と評することさえ、「時間」あるいは「空間」が遊戯的な交錯をしか見せないこの「オムニバス映画」に於いて、彼女の存在だけは例外的に「群像劇」のダイナミズムを孕んでいると言えます。彼女の孤独が至る「場所」はこの映画の冒頭で先ず説明されています。その確信犯的な説話構成の故に、観客はスクリーンに彼女の姿を発見する度にその「場所」を想起し、すべてのエピソードがそのイメージを共有していること、一つの可能性として常に其処に「在る」という事実を確認することになります。あるいはまた、すべてのエピソードと其処に登場する女性達は、その共有された「背景」に照らし出されることによって、それぞれの「輪郭」をスクリーンにより鮮明に映すことにもなるのです。

 各エピソードの女性達はそれぞれ何かを「発見」することになるのですが、それに一役買っているのが何れも「異形」であるというのがこの映画の特筆すべき点であると言えます。グレン・クローズにはその母親、ホリー・ハンターにはホームレス、キャシー・ベイカーには侏儒、キャリスタ・フロックハートには死期の近い恋人、エイミー・ブレナマンには視覚障害の妹、異形でもあるキャメロン・ディアスには「カルメン」が、この映画はしかし、其処に異形という本来何一つ分かり合えないはずの存在を引張り出して、それらとの「和解」を示すような安逸に堕することは決してなく、むしろ、その「和解」が拒絶されている、「和解」の可能性を予め否定するためにこそ其処に異形を並べているとさえ言えます。極端なことを言えば、此処に於ける異形は「モノ」にも等しく、彼女らが何かを「発見」するのは、つまり、美しい花を見て心が癒されるのと殆ど理屈は同じ、それは決して花の美しさを理解した結果などではないのです。此処に於けるそれらが表層としてむしろ醜悪であることが、それらの関係性に幅を持たせ、また、決して「モノ」ではない人間の、その存在としての豊かさを示唆しているとも指摘できます。これは誰かを「理解する」のではなく、何かに「発見する」ことによって状況がほんの少しだけ改善される物語、その意味に於いて、彼女らの「孤独」が此処に何らかの解決をみるなど決してあり得ず、孤独は相変わらず孤独のままに、「孤独と如何に向き合うべきか」と、彼女らが「発見」するのは正にそれなのです。

 公開から既に何週か経った土曜日の夕刻、午後4時からの回の整理番号付き入場券を購入するためにその1時間前に劇場に足を運んだものの、その時点で既に「満員札止」の状況、その次の午後7時からの回も「残り僅か」とアナウンスされているほどの盛況ぶりでした。致し方なく私(と同行者)は午後7時からの回を観たのですが、勿論満員、ある程度予想されたことですが、しかし、観客の婦女子率が95パーセントというのにはさすがに驚かされました。自立する女性と都会の孤独、我が街「東京」も愈々そんな厭味な空間になりつつあるのでしょうか?


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