Index

 
降霊
監督:黒沢清
2001年6月3日(バウスシアター2)

 此方から彼方へ



 この映画は本来テレビ用に制作されたもので、実際、既に放映もされており、何故今頃になって(小規模ながらも)劇場公開などされるのか今一つ理由がよく分からないのですが、今回劇場で観たそれには英語の字幕が、あるいは海外映画祭向けのフィルムを国内でも有効活用しようという目論見なのかも知れません。何れにせよ、個人的には未見の作品でしたから、阿房らしいと思いつつも劇場に足を運んだ次第、「映画は映画館でこそ観るべき」とは言い条、本来テレビ用に制作されたものはやはりテレビで十分、画面が拡張されたからと言って何が変わるというわけでもありません。
 テレビ向けの作品ですから、スクリーンは勿論アカデミーサイズ、冒頭から如何にもこの監督らしい「フィックスの長回し」を目撃することになるのですが、これがアカデミーサイズでは今一つ、固定された画面内を人物がウロウロと移動して、時として画面からすべての人物が消えてしまうのもやはりこの監督らしい「演出」と言えるのですが、そもそも画面の横幅が狭いこともあって、その「消えてしまうこと」にどれほどの「驚き」もありません。その場面の最後の方でカメラが左右にゆっくりと「首を振る」のですが、その動作が恰も画面の「幅の狭さ」を補完しているかのよう、やはり、何処となく中途半端な印象を受けてしまいます。

 さて、これは監督自身が屡々言及していることでもあるのですが、差し当たってキリスト教的二元論とは無縁の「和製ホラー」に於ける「怨み」の着地点(否、そもそも幽霊の存在理由としての「怨み」という概念が和製ホラー独自のものと言えるのですが)は一体何処にあるのか、もし仮に大抵の怪談噺がそう決着するように「殺す」ことがその着地点であるならば、怨まれる人間にとって「死」が即ち最大の「苦痛」とならなくてはなりません。人間にとって「死」が苦痛、恐怖であり得るのは、それが「永遠なる不在」を意味する故、要は「死んだら終り」だと思うからこそ「死にたくない」わけで、しかし、それを執行する幽霊の存在が実は「死んだら終り」という事実を否定している、つまり、幽霊の存在が図らずも証明してしまうのは、人間にとって肉体の「死」はあくまでも「此方から彼方への移動」に過ぎないということに他ならず、差し当たって「次」が用意されているのならば殺される人間にとって「死」は然したる苦痛でもなくて、また、その理屈で言えば、幽霊が「怨み」の対象を「殺す」という動作は、その対象を自身が今居るのと同じ場所に呼び寄せるということにもなり、怨めしいはずの人間をむしろ自身の側に呼び寄せようなど、考えてみれば随分と矛盾した「感情」です。

 この映画に於いては、その「着地点」を対する逡巡がそのまま幽霊の態度にも現われており、此処に於ける幽霊は実体すら伴って現われるものの、しかし、別に「殺す」わけでもなく、物語的には確かに主人公を散々悩まさせて「自白」を促すことに一役買っているようにも見えるものの、しかし、それが果たして幽霊の望んだ結論なのかどうかなど分かりませんし、そもそも其処に現われる幽霊が何らかの「結論」を望んでいるようにさえ見えません。「地獄はありますか?」という主人公の問いにしてもそう、仮に「地獄」が存在し、それが現世の悪業の帰結すべき地点であるならば、幽霊のそれは「怨み」の対象を一刻も早く其処に落とそうとする動作であるとの理解もあり得るのですが、しかし、生々流転、永遠に続く淀みない流れの中に於いて、ほんの数十年の「誤差」などどれほどのものとも思えませんし、そもそも此処に於ける幽霊は、結果として主人公に「自白」を促すことにもなるのですから、むしろ「地獄」に落ちてしまわないよう「手助け」をしているようにさえ、「怨み」に相応しい着地点など何処にも見出すことができないのです。この物語に於いては、少女の死が曖昧に描かれており、例えば、役所広司が彼女を黙らせるつもりで誤って窒息死させてしまったとか、そんなふうには決して描かれてはおらず、それもまた幽霊として現れる少女の態度を曖昧に、「怨む/怨まれる」という単純な構図は予め、むしろ確信犯的に排除されていると考えるべきなのでしょう。そして、その「彼方」と「此方」を巡る監督の躊躇いが『回路』に於いてますます加速されることになるのは今さら指摘するまでもないこと、其処に於いては、もはや「彼方」と「此方」が「在る」という事実のみが提示され、両者の関係性、あるいは、それらの何れに属することが幸福であるかさえ、態度は留保されています。この映画の場合は、差し当って「犯罪映画」という「ジャンル」に片足を突っ込むことによって上手く言い逃れている感もあり、その意味に於いて、些か「及び腰」であるような印象も受けてしまいました。『回路』を既に観ているだけに。

 役所広司が演じる主人公の職業はデ・パルマの映画でジョン・トラボルタが演じた役柄を想起させるもの、『CURE』など正にそうなのですが、この監督の近年のホラー作品に於ける、単に「効果」としてのそれに止まらない「音」の存在感に思い至れば、主人公のその職業にも頷けるものがあります。また、明らかに小津安二郎監督のショットが引用されている箇所があったり、テレビ用だからというわけでもないのでしょうが、随分と遊んでいるようです。

 公開から既に何週か経った日曜日の午後、観客は私を含めて5人くらい、ビデオが既に発売されているのかどうかは知らないのですが、今さらこれを「映画館」で観るという物好きはその程度なのでしょう。私はテレビなど殆ど観ませんし、映画雑誌もまるで読みませんから、映画関係の「情報」になどまるで疎いというのが正直なところ、この作品も放映の暫く後になって漸くその存在を知ったというテイタラクでした。
 英語の字幕で興味深かったのは、「××さん」の「さん」が「san」とそのまま訳されていたこと、今どきではそれで十分に通用するということでしょうか。その割には「佐藤さん」が「Sato san」に、『ブラック・レイン』の当時も指摘されていたことですが、その表記ではむしろ「斉藤さん」に、「ジュンコ」は「Junco」になっていましたが。


Index